北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

HANAMI in Finland!

こんにちは。 moi !

 

帰国前ということがうまい具合によき言い訳となって、何となく何でもいいから何か書いてみたい気持ちに駆られている今日この頃です。

 

というわけで今回は先日ヘルシンキで開催された花見イベントについてつらつらと書いてみようかと思います。

 

 

・・・フィンランドに桜?

 

という疑問を真っ先に思われた方もいるかと思いますが、驚いたことに或るんですね、これが。

 

僕もfacebookのイベントページが友達のシェアかなんかで回ってきたときは普通に信じませんでしたし、あっても植物園かなんかにちょいちょい咲いてるだけだと思ってました。

 

でも実際に行ってみると、、、

 

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咲いてる。

 

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しかもこの規模で。

 

流石に日本で見慣れた桜並木ほどのインパクトはありませんが、公園の道路沿いにずらっと並んだピンク。全部桜です。

 

誰が何の意図でここにこれだけの量の桜を植えたのか、非常に気になります。

 

当日は絶好の花見日和で、雲一つない青空のもと沢山の人がピクニックを楽しんでいました。(そうそう。花見をしてるというよりかは、ピクニックをしてるという感じでした。)

 

 

また、興味深かったのは、流石に花見というだけあって今回のイベントにはジャパン!が大きく関わっているようで、空手とか柔道とか華道茶道のパフォーマンスが行われていたり、お弁当とか焼き鳥といったカジュアルな日本食の屋台もたくさん出て居ました。

 

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出店のメニューです。注目すべきはやはり値段ですね。ラムネが五百円することに憤りを隠せません。

 

f:id:healsp:20170526052700j:plainそれにしても大盛況。お昼ごろには売り切れる品も数々。

 

f:id:healsp:20170526052807j:plain着物を着て参加しているフィンランド人もぽつぽつと。

 

その他にも原宿系なのかアキバ系なのなんなのかコスプレ集団もたくさんいました。

 

加えて国際結婚であろうと思われるカップルや家族連れの方もたくさん見受けられて、あちこちから頻繁に日本語が聞こえてくるのが違和感でしかありませんでした。

 

 

まあ桜への感動は置いておいて、今回感じたのはいかにフィンランドで日本が良く受け入れられているかということです。

 

ポップカルチャーから伝統的なものまで様々な面から日本のカルチャーを受け入れ気に入ってくれている人がフィンランドに沢山いること、そういうものをまとめて爆発させられるような場所がきちんと用意されていること。

 

マリメッコムーミン、北欧デザインなどで日本でもフィンランドが温かく受け入れられていることもあって、お互いソフトパワーガンガンでブイブイ言わせているその感じに

 

なんだかすごく温かい気持ちになりました。

 

ステージで「それでは続きまして、Japanese Dance, PARA PARAを踊ってくださいます。どうぞ!」と言う紹介でアニメ系のEDMにのってパラパラが急に始まったことも、それはそれで嬉しい限りでス。

 

今回花見が行われた公園はヘルシンキ市内にあるROIHUVUORIという名前の公園です。ヘルシンキ中央駅からメトロでちょいちょい、Heruttoniemi かSiilitie という駅で降りて、徒歩でちょいちょいです。写真にもある近未来的というかディストピア的なそびえたつ謎の建物がアイコンです。

 

ヘルシンキに訪れた際はぜひ。

 

それでは。moi moi!

溶けていくこと

こんにちは。 moi !

 

今日はいつもとは違うテイストで何かしらを書いてみたいと思います。

 

 

去年の八月に初めてヨーロッパの地を踏んでからはや9ヵ月が経とうとしていることになりますが、何となくたくさんのことを経験したような気もしていれば、まだ経験できることのうちのほとんど何も経験していないような気もしています。

 

フィンランド教育を教育学的、社会的、文化的、哲学的、、、とにかく色々な面から観察するなど大口を叩いて、有り余るほどの支援を頂いて今ここにいるわけですが、最終的にそれに見合った学習ができたのかどうかは自分でも測りかねているところです。

 

でもそんな哀愁の中で唯一胸を張って「かけがえのない」などとアナザースカイでしか聞かないような表現を当てはめられる経験がありまして

 

それがタイトルの通り「溶けていく」という経験です。

 

なんだかんだ言って九か月も異国の地に居れば、ただ飯食って散歩して寝てを繰り返しているだけで新しい発見や刺激で心はぐいぐい動くものです。

 

日本にいたら間違いなく絶対にやらないようなことをやり、行かないようなところに行き、今までの人生で会ったことのないような人に沢山出会いました。

 

その度に自分の中で何かがじわっと「溶けていく」という感覚を覚えました。

 

 

やたらと涙を誘ってくる映画やドラマのせいで、思春期青年期の人生がいかに楽しくあるべきかが規範として刷り込まれている21世紀に他の多くの人と同じように思うようにいかなくて躓いてばかりだった僕はほとんど拗ねてふて寝寸前のところだったのですが

 

社会の流れが速すぎておちおちふて寝など出来なかった代わりに、低予算で作ったハリボテの規範や偏見を支えにしてとりあえずは疎外されないように日々を過ごしてきた感があります。

 

ただし、ハリボテといっても我ながらよく出来ていたもので、長いこと使用しているうちにだんだんとそのハリボテがリアリティを増してきて、それを身にまとっていることに対して違和感を抱かなくなっていたのだと思います。

 

しかし驚いたことに、留学中はせっかく身にまとったハリボテは全く本来の効果を発揮せず、ただの重荷にしかならないのです。

 

無人島に一人漂着したら誰でもつけているピアスを外すでしょう。

 

そんな具合で、小さいころから体に染みつけてきた、何かをしなければいけない、とかした方が良いとかそういう理由をすっ飛ばして感覚的に、身体的に身に着けてきた全ての考えが場所に行き、人と会い、言葉を交わすことで少しずつ自分の中で薄まっていく気がしました。

 

もちろんそうやって今までの考えが否定されることに対して、自分から何もなくなっていくような、そして今までの自分の人生そのものが否定されるようなストレスもあります。生理的な拒否反応みたいなものもはっきりと感じます。

 

でも正直に言って、そこまで強くしがみついていたいような生き方をしてきてはいません。どっちかっていえばくだらないしろくでもない。

 

それでもあと何十年も時間は続いてしまうのだから、このまま溶け続けてもうほとんどなくなってしまうまでになってもそこから何かより良いものが生まれて

 

それと一緒に十年でも二十年でも生きていけるのであれば万々歳だと思う。

 

それに浅薄で頑固な僕はきっとまだ表面すら溶け切ってないから心配ない。

 

 

この変化が「良い」方向に向いているのか「悪い」方向に向いているのかはわからないが、感覚がこの経験は「かけがえのない」といっている。

 

 

以上。moi moi!

助けてと言える場所

こんにちは!moi !

 

今日は生涯教育が専門の友達の誘いでヘルシンキのコミュニティセンターに行ってきました。

 

コミュニティセンターとはさっくりいうと、その地域に住む人達が集まって何かする場所。そのままですね。

 

例えばランゲージクラブが開かれていたり、ダンスレッスンがあったり、外部から講師を呼んで講演会やセミナーが開かれたりします。

 

ただ、周辺地域の人に場所を提供して、はい終わり、というわけではありません。

 

まず一つ重点の置かれていることとしては、地域で困っている人の受け皿となること。ソーシャルワーカーやボランティアの人が常駐していてその地域に住む人のニーズにこたえるような活動を積極的に展開していました。

 

例えば、パソコン/スマートフォン使い方講座。特にICTの充実が世界的にも進んでいるフィンランドでは銀行でも郵便でもなんでもネット化が進み、その使い方がわからなければ社会からの排除、逸脱につながりかねません。そういった人達が困ったときにフラッとよれるような場所がそこにはあります。

 

他にも、シングルマザーの会とか、うつ病に悩む人の会とか、とにかく地域のニーズにあるものはなんでも作るいった感じでした。

 

中でも印象に残ったのが移民関係の活動。他のEUの国々と同じようにフィンランドも移民難民の受け入れを続けていて、彼らをどう社会に包摂していくかは国全体の喫緊の課題となっています。

 

言葉が喋れなかったら?銀行口座はどうやってつくればいい?事情でパスポートを本国から持ってこれていなかったら?学校は?

 

そういった様々な問題を解決する場所として積極的にコミュニティセンターを活用しているようでした。

 

また、今回見学させてもらったコミュニティセンターの傘下組織として運営されているユースハウス(これもコミュニティセンターの一部ですが対象がユースに限定されています)では実際に移民のバックグラウンドを持つ子供たちが言葉の練習もかねて放課後に集まって料理をしたり演劇をしたりサッカーしたり、はたまたただゲームをしたり、、

 

様々な障害があって地域にすぐには溶け込めない子どもたちの居場所となっているようでした。

 

 

今回ユースセンターを案内してくれたソーシャルワーカーさんが、主な仕事内容を聞かれた時に

 

実は決まってやることは一つもない。子供たちに必要なものがあればそれを得るためにやれることを考える。その繰り返しだよ。

 

といっていたのがすごく強烈に耳に残っています。

 

特に僕は制度とか、社会とか理論とか、なにかと大きなレベルで物事を考えてしまいがちだけど、こういう地域の問題解決というのは目の前で起きていること、ただそれだけが信頼できる現実であって、問題が起きては解決して、起きては解決して、その繰り返して毎日が進んいく。

 

きっと社会でそれなりに幸せに、自分の人生に満足して生きていくというのはきっとその繰り返しを丁寧に続けていくことなんだろう。

 

結局一般化してなんとなくわかった気になってしまう悲しさを飲み込みつつ、そんな当たり前のことに気づかされた一言でした。

 

 

またその文脈で頭に浮かんだことは、「助けて」って言えることの大切さです。

 

今回のコミュニティセンターも、そもそも地域の人が困ってると声をあげてくれないとどうしようもありません。

 

実際にソーシャルワーカーの人も、いかに地域の人達に頼ってもらえるか、そしていかに彼らにセンターに「居て」貰えるかが課題だといっていました。

 

 

困っている人が困ってるといえる環境ってありそうで中々ないと思います。

 

ついつい他にも困っている人がいるからとか、助けを求めるのはかっこ悪いとか恥ずかしいとか、なんだかんだ言って自分の中で適当に押し殺してしまったり、また周囲の人に押し殺されてしまったり。

 

でも人が困っている時って、別に社会がどうとか、他人がどうとかじゃなくって、ただただ「困っている」。

 

それだけが彼らにとっての現実。

 

それを解決しようとするのに何のためらいが必要なんでしょうか。

 

 

口では何とも言えますね。

 

 

今回はたまたまいただいた機会で今まであまり触れてこなかった領域なので新しく考えることも多く、一方深く考えられないもどかしさもありました。

 

ちょっと調べてみただけでも、どうやらコミュニティセンターだけで、歴史も長く色んな知が蓄積してるみたいですね。

 

日本にもこういうコミュニティセンターのような場所はきっと沢山あって色んな人が色んな思いでそこにいるのだろうと思います。

 

帰国してやってみたいことがまた一つ増えました。

 

ではでは

 

moi moi!

多様性と絶対的な正直さ

こんにちは。moi!

 

去年のいつだったか留学したての頃に、インターナショナルな環境における多様性の難しさ云々について書いたと思うのですが、今回はあれからまたしばらく時間がたって、見えてくるものも違ってきていると思うので

 

その再考、という形で何か書いてみたいと思います。

 

まずとりあえず今までの肌感覚とちょいちょいそれに関する授業から出来上がった僕の中での多様性にまつわる青写真を描いてみたいと思います。

 

多様性を考えるときの基本的な対立は、「私たちは一人一人違う個性を持った人間である」という言説と「私たちは育ちや環境、生まれ持っての性質によって多くを共有している」という言説ではないでしょうか。

 

この二地点の間で私たちは絶えず揺れているのだと思います。

 

この二つの言説はどちらも正しく、僕らは一人一人違った個性を持っていると同時に多くを共有しているのですが、問題はその度合いやわかりやすさにあります。

 

同質性が非常に高くまた、それがお互いはっきりと認識しやすい状況では、「多くを共有していない」「個性を主張する」ことが良くも悪くも目立ちやすいです。これは主に同質性がもたらす安心感や対人コストの低さ、集団に所属しているという感覚が原因なんですかね。似たもの同士で集まるっていうのは人間関係の基本性質?。

 

逆に全員に違った個性を見出しやすい環境であれば、多くを共有していることを主張することがタブーとなりやすいです。これは、同質性という特徴の裏に隠れている異質なものを排除するという特徴を知ってのことだと思います。簡単に言ってしまうと、五人の人間がいたとして、うち4人が男性で一人が女性。低くない確率で一人の女性が疎外感を感じるかもしれません。この男性/女性の区別は国籍、人種、アクセント、社会階級、趣味、キャリア、、、なんだって置き替えることができます。こうして様々な面で疎外感を感じる人が増えてくるのが多様性の高い社会であり、そういった問題を解決しようとするが故に同質性がタブーとみられやすくなるのでしょうか。

 

また、同質性の問題は疎外「感」にとどまりません。ここでのキーワードは「パワーバランス」と「特権」としておきましょう。

 

ある共通した性質によって集団を分類したときに、その集団間に必ずといっていいほど不公平なパワーバランスが生まれてしまいます。ある集団が他の集団より多くの発言力や特権を獲得し、結果その場その場の出来事だけでなく人生レベルで不公平が生じてしまう。

 

一番わかりやすい例は数の力でしょうか。他にもある集団が伝統的に特権を得ていたり、社会的に抑圧されていたりもします。

 

そこでそういった不平等を是正しようと、それに関する不利益をこうむってきた人達が中心となって今まで様々な人たちが声をあげ、あらゆるカテゴリーの概念的、あるいはカテゴリーそのものの解体が進められてきました。

 

僕は身近な友人で何人か、国や文化という個人を集団に所属させるような枠組みを一切合切きれいさっぱり取っ払ってしまいたいというようなことを主張している人たちを知っています。

 

 

ところで 、、、

 

こういった解体は一体どこまで行けば終わりを迎えるのでしょうか。

 

またどのレベルまで解体すればよいのでしょうか。

 

僕の目下の疑問として、制度的なレベルでの解体と個人的な人間関係のレベルでの解体はどこまで共通の下地を共有すればよいのでしょうか。同じスピード、同じ度合いで進めるべきという認識を持ってしまって良いのでしょうか。

 

今、こうした解体作業は必ずしもハッピーハッピーで進んでいるようには思えません。行き過ぎたポリティカルコレクトネスは人々に窮屈さをもたらして、その窮屈さを乗り越えそれでも「完全な平等」へと向かおうとする人たちから開き直ってしまう人まで立場の分断がよりはっきりと現れるようになっているのかも知れません。

 

 僕はこの場で大きなレベルで話をしようとしているわけではなく、あくまで個人としてどう考えふるまってよいものか、ということを考えたいと思っています。

 

少なくとも個人のレベルで、自分の半径5メートルの人たちが、そして自分自身がこうした振り子の間で揺れ動き戸惑っているのを感じています。

 

この前、ABC三人の友人と歩いていて、Aがなにかをやらかしてジーザス!!と叫んだときに、Bがそんなことでその名を呼ぶべきじゃないと咎めました。「Cはクリスチャンだから」と。

 

確かに一部の敬謙な信者はその言葉を口にするのを避けることはAも知っていました。それにAは他に代用できる言葉をたくさん持っていたでしょう。でもだからといってここでAは多様性への意識の低い失礼な奴だと咎めることで何になるのでしょうか。

 

結局Cが自分は全く気にならないと言ったことでこの下りは終わりました。

 

みなさんにこの話がどのように聞こえたのかはわかりませんが、こういう事が多様性の高まりつつある社会では日常的に起きているのだと思います。

 

 

これって、僕の個人的な感覚からすると

 

正直にいって、どこまで追求したって終わりがないと思うんですよね。

 

どこまでが不快でどこまでが気にならないとか、どこまでがジョークでどこまでが笑えないとか、そういうのって個人によって大きく変わって来くるし、

 

もうなんなら日々地雷原を歩いているようなものじゃないですか。

 

もちろん終わることのない追求をしていくことは大切だと思うし、例えば総理大臣とか大統領とか国営放送とかそういう機関であればある程度の窮屈さを受け入れる必要はあると思います。

 

それに教育を通して今多様化する社会で様々な問題が起こっているということ、なんてことのない小さな言葉と思っていてもそれで不快な思いをしたり傷付いたりしてしまう人たちがいること、それらをしっかりと理解させることは大切だと思います。

 

ただ、僕が少し違う思ってしまうのはそれらの「間違い」を冒してしまった人達を鬼の首でもとったかのように「無知」「愚か」「差別主義者」などといって痛烈に批判、いや口撃するような態度。

 

 

やや過激に聞こえるかもですが、差別的な感情、偏見、ステレオタイプ、無意識に吐かれる毒、こうしたことはもはや人間の本質に近いものがあり、もしかしたら一生それから逃げることが出来ないのかもしれません。

 

それなのにそれらが全く存在しないような社会を想定して前に進もうとすれば、開き直って逆方向に進もうとする人と、自分を押し殺して不健全かつ非本質的な優等生がたくさん生まれてしまう恐れがあります。

 

 完璧を前提とするような社会の在り方はどうしても違和感しか感じないのです。

 

 

そこで一つ思いついたアイディア。

 

タイトルに書いたように、絶対的な正直さをもつことが一番大切だと思うのです(少なくとも個人のレベルでは)。

 

言葉というのは人間を形成する非常に大きな要素の一つでもあり、また人間の一部しか表さない非常に表面的なものでもあります。

 

何を言ったのかではなく、何を思ってその言葉を発したのか。その言葉が表現し切れなかったものはなんなのか。

 

そういったことまで考えを及ばせること。

 

 

そしてその上で、嫌だと感じたことは嫌だと感じたということ。不快に感じた時に不快に感じたと言うこと。

 

またそれだけでなくて、相手を不快にさしてしまうかもしれないこと、嫌な気持ちにさしてしまうかもしれないこと、それすらもお互いにオープンにシェアしなけれないけない必要性が出ていてるのかもしれません。

 

社会制度や規範など大きなレベルではどうしても対処しきれないことは個人のレベルでその場その場で対処していくしかない。

 

そう思います。

 

なんだか書いてみると当たり前のようにも聞こえてくるのですが、案ずるよりも生むがやすし的なことだと思います。 

 

それでは。

 

moi moi!

Vappu! 春のお祝い in Finland!

こんにちは!moi !

 

 

先日、最後の授業とレポート提出を終えて晴れて交換留学プログラムを実質全て終了しました!

 

後は友達といい感じで別れを惜しみつつ残されたフィンランドでの生活を満喫しながら、帰国を待つのみです。

 

 

フィンランドではようやく長かった冬を終え、春を迎えました。

 

五月に入ってからは割とずっと最高気温十度越えを記録していて、街も目に見えて活気づいているのがわかります。

 

ということで今日は今月一日にあった、Vappu(バップ)というフィンランドの祝日を少し紹介したいと思います。

 

Vappuというのは春の到来を祝う国民の祝日で、さっくりいうと、他の国でいうメーデーが独自に進化したような感じです。

 

クリスマスやイースターと並ぶ一年で最上級の祝日らしく、ヘルシンキでは多くの人が街に出てきてどんちゃん騒ぎで春を祝福します。

 

エスプランディ公園を通って港のマーケットスクエアまでずらっと屋台が並び子ども達から学生、老夫婦、あらゆる人がヘルシンキ中心街を埋め尽くします。

 

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そんなVappu day の中でも特に注目なのがcappingという謎の儀式。

 

フィンランド中央駅から徒歩15分程度、港のすぐそばにハヴィス・アマンダ像という像が立っていて四方を囲むアザラシと共に噴水するようになってるのですが、それが冬の間はカチコチに凍って噴水を止まってしまってるわけですね。

 

 

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こんな感じで。

 

それをVappuの日にヘルシンキ市内の大学に属するStudent Unionの人達が毎年交代交代でこの像をモップがけするという伝統があるのです。

 

またその時に白いセーラー帽をみんなでかぶります(capping)。

 

言葉で説明しても何のことやらという感じなので(僕もfacebookのイベントページの説明を見ても何のことやらさっぱりでした)、写真で紹介します。

 

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まさかのクレーン釣り(笑)

 

そしてその周りを囲む大量の人!

 

まさかそんなに大きなお祭りだと思っていなかったので驚きました。

 

プリクリスマスでサンタさんが大聖堂までやってきた時並みの人込み。君達冬の間どこで何をしていたんだというくらいの賑わいで冬全盛期と比べると全く違う街のようでした。

 

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cappingが終わった直後の大聖堂もこの賑わい。

 

もしかしたらクリスマス以上の賑わいかも。

 

いかにフィンランド人が春を待ちわびていたのかがわかります。

 

 

また、Vappuはこの一日だけでなく学生は数日前からクラブやらイベントやらで本番にそなえ、Vappu day本番はクラブやバーが4時まで空いています。そしてその翌日も街中の公園で各々食べ物とお酒を持ち寄ってピクニックです。

 

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とにかく人が多い!

 

このピクニックは、雰囲気は日本の花見と同じような感じでしょうか。

 

ただEDMとかガンガンに流れて学生は踊りまくってるので、丸山公園とか井之頭公園の花見と真夏の湘南のビーチを足して2で割って気温をぐっと落とした感じですかね。

 

 

僕自身冬の長さには正直心身共にやられかけていたところがあるので、なんだかすごく元気の貰える数日間でした。

 

あと1か月しか残っていませんが、しっかりとフィンランドを満喫したいと思います。

 

 

ではでは、moi moi!

 

偏差値お化け

こんにちは!moi!

 

前回フィンランドの教育の中で偏差値による居心地の悪さが生まれにくい的な話をしましたが、今回は僕自身が今までの数年間とフィンランド的価値観を照らし合わせて感じたことを書いてみたいと思います。

 

あまり細かくは書きませんが、僕と偏差値との蜜月は小学校高学年から始まって高校を卒業するまでの約8年間かなり真剣なお付き合いをさせていただきました。

 

僕が人生を語る時、僕は十代の僕を順位で表すことができます。もっとも簡略化して言えば小学校高学年時代は21人中20位で中高は240人中120位。これが僕の順位です。

 

今となってはヘルシンキvuosaari行のメトロが一分遅刻したくらいどうでもいいことなんですが、当時の僕にとってはその数字は紛れもなく自己認識の大きな一部でした。

 

周りにはそんな数字に負けないくらい強かで賢い友人が沢山いましたが、精神的に脆弱な僕はこのままでは何かが違ってしまうかもしれないと思って、コンクリートジャングルTOKYOから18歳の精一杯の意地で逃げ出したわけです。

 

とはいえ逃げ出した先もさほど状況は変わらず、なんだか現役組浪人組とかカテゴライズされたり、現役合格で新歓期楽しそうというだけで散々文句いわれたり(あやつのことは今でも嫌いです笑)、大学名聞いただけで態度が変わったり、生活の中のほんの小さな一部にすぎませんでしたが、それでも確かに、細かな違和感は絶えませんでした。

 

それで今、KYOTOからも逃げ出して遠く西のフィンランドに流れ着いてきたわけです。(別にそれが目的ではないのだけれども!)

 

 

フィンランドでは僕がどの高校に通ってどの塾に通って、どんな方法でどの大学に入ったかなんて、僕には目が二つあって鼻と口が一つずつあるくらいのインパクトしかありません。

 

もっと言えば、どんなインターンをしたとかどんなボランティアをしたとか、どんなキャリアパスを通ったとか通るとか、そういうのも日本でそれを言うほどのインパクトは全くありません。

 

その活動そのものに興味があったとしても、その裏にある、もしくはその表に覆いかぶさっている「先入観」がないからです。

 

だから結局周りの人がやってるからとか、やったらすごいと思われているから、とかそういう理由でやったすべてのことがむなしく感じられるのです。

 

ここでは自分がやりたくて、自分なりの信念があって、自分なりの自己表現として行ったこと、やってみたいことだけがストーリーとして成立します。

 

 

これだけ解放された環境にいて初めて、僕は自分がいかに周囲の視線や社会のプレッシャーにがんじがらめにされていたのかに気づきました。

 

確かにずっとずっと前から違和感として感じていて、常に頭のどこかで解放されたいと思って、心のどこかで息苦しいと思っていたものの、どうしていいのかわからず、結局最後は現実という二文字を楯にして歩き続けることしかできませんでした。

 

確かにその恩恵を沢山受けているはずだし、変に反抗せずおとなしく歩いてきたことは非常に合理的な判断だったと思っています。但しわからないのは、その恩恵を無批判にそのまま受け入れてしまっていいのかということ。このまま納得できない自分を無視して歩き続けてしまっていいのかということ。

 

大学に入ってから、僕は挫折したことがないから、本当にしんどい思いをしたことがないから本当のことが見えていないと色んな人に何度も言われました。びっくりするくらい、何度も。

 

僕自身その言葉に納得させられてしまっているようなところがあって、確かに僕が言っていることがただの浅い考え甘い考え、ロマンティシズムに過ぎないのかもしれない。結局学歴やお金が人を幸せにするのが現実なのかもしれない。僕はただそこから目を背けたいだけなのかもしれないと何度も思いました。

 

今でもそう思っています。僕はまだまだあまあまちゃんだから現実というものがどんなものなのか全然わからない。

 

 

でも留学してみて、

 

野菜しか食べない人にあって

 

その国トップレベルの大学にいて官僚を目指している人にあって

 

仕事をしてはやめて旅をして、、と繰り返している人にあって

 

自分の仕事を世界で一番だとなんのためらいもなく言ってのける人にあって

 

 

とにかくいろんな人に会って、それぞれがみんなまっすぐな目で時に顔を真っ赤にしながら自分が何を信じて生きているのかを語ってくれて

 

僕が感じていた違和感は間違っていなかったのだと、再び思い始めています。

 

確かに偏差値的な価値観で幸せになれる人もいるけれど、全員じゃない。

 

大学に入学した後でも、自分のことを浪人だなんだとレッテル貼りして、○○大学なのにこんなことを言うのも恥ずかしいですがと恥ずかしげもなく言ってのけて、常に曖昧で大きな評価軸の中で自分を位置づけることをやめられない人達を、というよりもう一人の僕をぼんやり眺めていると、僕らにはもっと新しい形の幸せが必要だという気になってくる。

 

現実云々という話をするのであれば、僕らの考えではなくてそんな現実の方が変わった方がいい。

 

そんな気になってくる。

 

なんだか感情的になってしまいました。

 

まだまだですね。

 

それでは。moi moi!

フィンランドの教育トラックと偏差値という概念。

こんにちは! moi!

 

もう4月になってしまいましたね。

 

新学期や新生活、桜、桜でなにかと騒がしい季節ですが、フィンランドでは学期途中の何の変哲もない時期なので、まったく季節感なく過ごしております。正直、花見に参加できないのが少し寂しいです。

 

とはいえ急にフィンランドに桜が咲くわけではないので、ペースは見出さず、いつも通りのテンションで今回は、、

 

「偏差値」

 

について書いてみたいと思います。

 

 

この偏差値という概念、恐らく多くの人にとっては馴染みがありすぎて困ってしまうくらい、ほとんど常識的な用語だと思うのですが、実はフィンランドに来て、この偏差値という概念の特殊さにはただただ驚かされるばかりです。

 

特に僕もよく馴染みのある「偏差値で人間を語ろうとする試み」は、ここフィンランドではまったく共感されません。きれいごととかじゃなくてほんとに。

 

PISAの調査結果を見てもらえればすぐにわかると思いますが、フィンランドの学校間の学力差は世界トップレベルで小さいです(日本はトップレベルで大きいです)。それって簡単にいうとどの学校にいっても同じってこと。基本的にはみんな近くにある学校に通うことがほとんどです。

 

ありがちな学歴あるある何かを披露しようものなら割と本気で数秒の沈黙が訪れたりします笑

 

今回はなぜフィンランドでは偏差値という概念が根付いていないのかについてちょろちょろっと考えつつ日本における偏差値のあり方も考え直すいい機会にしてみたいと思います。

 

まずそのために、基本的なフィンランドの教育トラックについて紹介しておこうと思います。

 

初めに言っておきたいのは、フィンランドの学校は(ほとんど)すべて公立学校であるということ。公立私立の定義が曖昧なので保険をかけてほとんどと付け足しましたが、基本的にすべてと思っていただいて大丈夫だと思います(日本は中学は93%、高校は74.2%、大学は23.3%が公立ー非私立ーです)。そして義務教育から大学まですべての教育機関が無料です。

 

日本の子供達と同じように中学までは義務教育として教育をうけ、その後はほとんどの子供達が高校に進学します。高校は普通科(general education)と職業科(vocational school)にわかれています。

 

各トラックへの進学率ですが、現在は義務教育修了生で進学者のうち5割ほどが普通科に、4割ほどが職業科に進んでいるようです(日本は約7割が普通科に進学)。またフィンランドには中学四年生という学年が公式に整備されており数%はそこへ持ち上がります。

 

先ほど中学は基本的に地元の、、と書きましたが高校になると学校によっての特色もいろいろと強くなってきて、学生の選択の幅も広がってますし、高校側も選抜があります。この選抜は基本的に中学校三年間の内申点に基づいて行われますが、学校によっては独自の試験を課したり、特色入試のようなことを行うことも。

 

高校は大学のように自分で必要単位取るために時間割を設定して、単位を取り終えることで卒業となります。三年ないし四年で卒業するのがスタンダード。

 

高校卒業後の進路としては「就職」「大学(university)」「専門学校(polytechnique)」の三択になりますが、職業学校の学生が大学を受けたり、普通科の学生が専門学校を受けることも可能です。(ちなみに日本語で専門学校といってしまうと少しニュアンスが違うかもしれません。イメージはほとんど大学と同じものがあると思います。フィンランドでは職業訓練コースに進むことが積極的に推奨されており、そのためにも卒業後の選択肢の広さが十分確保されています。)

 

大学進学に関して驚きなのが、高校卒業後大学進学テスト(matriculation testといって、これをパスすると高校での学びを十分修得したとみなされ各大学の入学試験受験資格を得られます。立ち位置としてはセンター試験に近いですね)を通った人の7割(68%in2015)がout of education、つまり高校と大学の間で宙ぶらりんになっているらしいのです。ただしもっと言うと、2015年でmatriculation test合格者のうち75%が高等教育にアプライしたということなので、まあ100人いたら25人は進学希望なし、32人が進学ということなので超単純に計算すると、43人が浪人ということになります。

 

例えば僕のいる教育学部の小学校の教員養成過程は、何と合格率脅威の7%!受かるためにボランティアやインターンなどで先に経験を積んで再度再度チャレンジする人も多いのだとか(教員養成過程の選抜は最終試験に面接がありその人の将来の教員としての素質がダイレクトに評価されるため)。

 

さてさて、こんな感じでフィンランド人がどのようなトラックをたどって教育を受けているか、何となくイメージはついたでしょうか。

 

 

それでは、面倒なエッセイと違うので細かなあれこれはほっておいてザクザクいきましょう。

 

フィンランドでは偏差値という考え方が共有されていないという話なんですけれど、サクッとまとめてしまうと、学歴トラックが多様がゆえに比較する意味がないということ、そして社会システム的に race to the topの中で多少遅れを取ってしまっても差ほど差し支えないということ、があげられると思います。

 

今まで書いてきたことを見てもらうと分かると思うんですけど、それぞれの選択が極端にマジョリティにもマイノリティにもなりにくいようになってると感じませんか?義務教育を終え、普通科に行く人いかない人。高校卒業後高等教育に進む人進まない人。浪人したことがある人ない人。多少の差はあれどそこまで偏った違いは見受けられません。

 

また、無料教育という仕組みがあらゆる選択肢の選びやすさに大きく貢献しています。中学4年生をはじめとして、大学に入ってから専門を一度二度変更することも珍しくなく、学業を修め終了するまでに比較的リラックスして自分が何に興味が持てるのかを追及することができます。

 

このように思春期青年期の各段階で十分な選択肢と余白を用意しておくことによって、周囲の環境に無暗無批判に流されることなく、選択するうえで自分の興味関心意欲により声を傾けやすい環境が生まれているのかもしれません。

 

偏差値というのは基本的には一つの軸でしか能力を図れないので、選択肢の幅が広がれば広がるほど、そして各選択肢の価値が均等になればなるほどその存在意義は薄れていきます。

 

皆さんの中では偏差値という概念はどのような存在として受け取られていますか?偏差値という言葉に関するエトセトラを聞いたときに、理屈ではなくて心でものを考えたときにどのような感情が湧き上がってきますか?「偏差値36のあいつ」と「偏差値73のあいつ」にどのようなイメージ持ちますか?

 

ふと思いついて手元にあるデータだけでパーッとここまで書いてきたので、少し一面的な見方になってしまっているかもしれませんが、何かしらのアイディアの種の種にでもなってくれればうれしいです。

 

永くなってしまったので別記事で僕自身が留学して感じた偏差値と自分との関係性や思いについて書いてみたいと思います。

 

*追記。書きました↓

healsp.hatenablog.com

 

 

ではでは。moi moi!