北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

雪が降ったので「英語で自分らしく」ってどういうことだろうと考えてみた話。

こんにちは!

 

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ちょっと靴が汚いですが、それはおいておいて、、

 

そうです!

 

ついに!

 

 

雪!!!

 

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実は降雪が昨日だったので今日は少し地面が見えてますが、昨晩までは一面銀世界に近いものがありました。ヘルシンキ以北はもうすでに先月から銀世界突入していたみたいなのですが、やっと、です。

 

僕のルームメイトの香港人はこれが初雪だったみたいで、「結構しょぼいね。もう飽きたわ」といいつつ、帰り道に「ちょっと散歩して帰るから先帰ってて」などといってポーカーフェイスに隠しきれぬ興奮をのぞかせていました。

 

少し前まではまだ秋を感じられたのに、もう完全に冬。超冬。これからほとんど毎日が最高気温氷点下の世界。。

 

唯一の救いは今日、久しぶりに太陽を拝めたことです。

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一週間以上ちゃんとした太陽を見てなかった気がします。

 

 

てなわけで、いや、雪とは全く関係ないけれども、今回は前回に引き続き英語について書こうと思います。

 

というよりは、言葉、といった方が正しいのかもしれません。

 

今週から始まっているterm2の授業で、文化という存在を言語学の立場から分析してみようという文脈があって、ソシュールの一般言語学講義の一部を読む機会がありました。

 

日本語で読んだことも入門書も読んだことがなかったので、課題部分を読み終えるのに随分と時間がかかってしまいました。

 

でも時間をかけた分だけ、普段何気なく行っている言葉に関する全ての行為を捉え直してみたらこれは面白いぞ!という気概が生まれたというわけですね。

 

(とはいえ、ここで思ったことはソシュールと結び付けてとか、他の哲学理論がどうのこうのということではまったくなく、ほんとに日常生活で感じたことに過ぎないのでそういう気持ちで読んでくれるとありがたいです。。)

 

ということで言葉ねえ、、なんてぼんやり考えていたら、どっかで誰かが言っていた言葉を思いだしました。

 

 

"it is difficult to be yourself when you speak in a foreign language"

 

 

とかなんとかそんな感じの。多分授業中のディスカッションとかだったかな?

 

日本人の留学生の友人や留学経験者の先輩で同じようなことを同じような表現で言っていた人を何人か知っています。

 

この表現を聞いたときにすごく面白いなーと思ったのが、yourself と language がまったく別の切り離されているもので、言葉のない自分がまず先に存在して、言葉がそれを可能な限り本物に近いように写し取っているというなような感覚が、ごく当たり前の前提として敷かれているように聞こえたところです。

 

この前提に基づけば、一つ一つの言葉にはそれぞれ(主観的なものとはいえ)色がついているはずなので(例えば、アホとバカの違いのように。せやろ?そうだろ?そうでしょ?のように。)、普段からそうした色を繊細に感じて、また、それらを自分と照らし合わせながら自分をありのままに表したり、また隠したりするために丁寧に選んできた人、使い分けてきた人ほど、外国語でのコミュニケーションで「自分らしくいられない」という感覚を特に強く持つのではないでしょうか。レパートリーが少ない上、言語そのものの違いからくる制限もあります(敬語とか)。

 

でも、上の感覚だと、どちらかというと「自分らしくいら(be)れない」というより「自分らしさを表現(express)出来ない」のほうがしっくりきます。

 

言葉と自分らしさの距離が遠いだけで、外国語でしゃべることは自分らしさそのものには全く影響がないような気もしてきます。

 

でも本当にそうなのでしょうか?

 

僕の個人的な経験から考えると、”it is~”の中には、上でいったこととは別の言葉と自分の関係性の在り方を含んでいると思います。

 

僕の日常英語表現がどこからきているかといえば、基本的にはアメリカのTVドラマ、映画、そしてYOUTUBEチャンネルくらいです。時々今までガイドしたツーリストさんが入ってくるかこないか。

 

そうすると僕のレパートリー一覧に彼らの言葉が色付きでそのままリストアップされるわけです。ここでいう色つきっていうのはジェスチャーとか語調とか声色とかそういうのも含んでいます。

 

で、いざそれを自分の言葉として使おうと思ったときが問題。

 

きっと僕はリストの言葉そのものだけを選んでいるつもりでも知らないうちに誰かその出どころの人達の言葉の色もそのまま解凍して使ってしまっている。

 

結果的にそれを表現した自分が、その表現の出どころであった人達になってしまったかのような錯覚を得てしまう。

 

自分を上手く表現できないだけであればそこにあるのはもどかしさである一方で、自分が常に別の誰かみたいに感じられるようなこういう感覚はより「自分らしさ」という考えに強い影響力を持っているような気がします。特に教科書や日本人先生ではなく、異文化の中から言語を習得しようとしてきた人ほどこの傾向は強いと思います。

 

 

でも、こうした自分らしくいられないということは、必ずしも悪いことではないと思います。

 

今まで言葉を自分を表現するただの道具として扱ってきましたが、実態はもっと複雑で言葉と自分はお互いに影響しあえる存在だとも取れます。そう考えると自分らしくいられないのは、何か新しい自分が生まれているということ。

 

「自分探しの旅で自分見つかった人0人説」があることからもわかるように、何か一つ正解の自分があるなんて考えはばかげています。

 

英語が上手くなればなるほどきっと言語間の自分らしさの違いは縮まって(真ん中にではないにせよ)統合されていくと思うので、逆に今だからこその「自分分裂体験」を楽しむのもアリなのではないかと。

 

留学して自分を変えた!!みたい体験をたまに見ますがこういう言語的な要素も大きくかかわってるのかもしれませんね。

 

そんな僕は日々どうやったら日本語を喋ってるみたいな感覚で英語を喋れるのかを探っています。。。

 

 

さあ長くなってまいりましたが、最後に。

 

この、言葉と自分の関係性は外国語を通して初めて実感できたことではあるのですが、最終的には日本語の中でも同じようなことが言えると思います。

 

同じ日本語でも実は全員違う「言語」を喋っているのかもしれません。

ただ、外国語だとそれが顕著なだけで。。

 

そういう風に普段気にしない「言葉」に意識を向けてみたら、例えばお互いの不理解から起きる問題だったり、例えば意識高い系に流されて色々見失っちゃう問題だったり、そういうところの解決にもいい感じでつながったり繋がらなかったりしちゃったりしなかったり・・?あれ?教育系の話にもつながっちゃったり??

 

まあ日本語のこととか他のことを絡めだすときっとややこしくなるので、またいつかということで。。。

 

 

とりあえずこういうのも留学の良さですかね。

 

ではでは。moi moi!!

 

 

P.S.

確か学習指導要領の外国語修得の目的に、外国語を通して日本語を見つめ直す、みたいなことがあったような気がするのですが、「それめっちゃええやん!大事やん!!」と思った一方で、「そこまでやるか?」というのと「そこまでやる気あんのか?」ということも思いました。

 

 

 

 

 

 

とりあえずターム終わったのでまとめ。

こんにちは。moi!

 

昨日ようやくターム終わりのレポートが全て終了しました!!ようやく缶詰生活からの解放です。

 

 

ヘルシンキ大学は一学期2ターム制で、一年で4タームあるので、テストやレポートも4回課されることになります。

 

9月10月がterm1、それで10月末の一週間が授業なくてまた、11月からまたterm2が始まります。

 

留学生の中にはterm1に全必須単位を詰め込んで、term2は授業なし!後はお国に帰るだけ!なんてつわものもいました。いやむしろ暇すぎじゃね。それ。遊ぼうにも寒いし、みんな授業いってるし。

 

ターム末レポートに関しては、僕がとった授業では大体1500ワードくらいが標準でした。内容は授業の要約から自分で論点見つけて議論させるものまで色々。

 

僕が受けた授業はその他に、レクチャー、グループディスカッション、グループプレゼンテーション、アテンダンスを含めた大体五点セットで単位が構成されています。

 

単位の構成は授業によってまちまちみたいですが、僕の学部の授業は教員養成過程に入っているからか、ちゃんとフルコース求めてきました。アクティブラーニング!!みたいな。

 

ということで、今回は一通り授業を受けてみて思ったことを書き残しておきたいと思います。

 

とりあえずこの一言。

 

「シャイな日本人留学生って逆にすごくない??」

 

 

 

・・・・・・。

 

これ完全に自分を頑張って励ましてるだけなんですけど、まあそれはいいとして

 

正直に言ってシャイな性格と英語力の低さで授業中結構苦労しました。まあ主に英語力ですね。

 

日本でもお試し程度にオールイングリッシュの授業をとっていましたが、それはほとんどお遊びみたいなもので(それはちょっと先生にもうしわけないか笑)、これだけアカデミックなことを全部英語でやってのけるのは初めて。当たり前のように大変でした。

 

ディスカッションでも、突っ込みどころは沢山あるのに流れについていけなくて言葉を飲んじゃったり

 

授業中も聞くのに精いっぱいで中々良い感じノートがとれなかったり、ただ情報を受け入れるだけで批判的に考える余裕がなかったり。

 

エッセイもネイティブと比べたら表現力が天と地ほどの差があることを目の当たりにしました。なんか接続詞とかを縦横無尽に使いこなしているのとかほとんど感動的で、僕なんか「ここぞという時のHowever」を使うのが精いっぱいで。

 

APAスタイルも一年生の時になんとなく先生から教わったきりだったので、実は恥ずかしながらルームメイトに教わったりしながら一から調べ直しました。

 

相手が圧倒的に知識があるとか、とんでもないロジカルモンスターだとか、そういうことではないんです。そういうこともないことはないけど、むしろ逆、みたいなこともあるにはあって。

 

ただただ僕の表現の手札が少ないだけ。それが逆にもどかしかったりする。

 

そんなぐるぐるの中でふと思いました。

 

もちろん差はあるだろうけど、概して日本人留学生の英語力の低さは

他の留学生と比べても目立つものがあると思う。他の留学生は割と母国でも、オールイングリッシュの授業普通に受けるっしょ、的な。ルームメイトの香港人にいたっては二人とも母国語の授業を見つける方が難しいらしいです。8-9割は英語。

 

僕の大学の英語教育がだめだめ説もなくはないですが、一般的にアカデミックイングリッシュの訓練を十分に受けている日本人留学生なんてそうは多くないはず。(まあ母国語で全授業を受けられるすばらしさ is あるしね)

 

それでその英語力に加えてシャイなんかだったらもう目も当てられない。。(/ω\)

 

でも、、

 

留学した先輩同級生とか見てても

 

なんだかんだ言ってみんな、頑張って単位とってるじゃないですか。

 

みんな何も言わないし素振りもみせてくれないけど、多分何人かは僕みたいにAPAスタイルを図書館いって調べ直したりしたと思うんですよ。

 

そう考えると

 

 

ああなんかみんな頑張ってるんだなあ。。。。

 

 

と謎に温かい気持ちになりましたとさ。

 

 

不本意にも勝手に同レべに落とされて一緒に戦う味方的な感じにされてしまった日本人留学生の皆さまにはお詫び申し上げます。。mm

 

 

でも、母国語じゃない時点で日本語と同じクオリティのパフォーマンスが出せないのは夏暑くて冬寒いくらい当たり前のことで、内容問わず英語喋れるだけですごいと思っていた昔から比べると贅沢な悩みでありまして

 

それにたった二か月ですけどいろんな能力が少しずつ伸びてる気もしていますし、僕もなんだかんだ言ってフルコース全部完遂してるので、焦らずterm2も春学期も頑張っていきたいと思います。

 

では。moi moi!!

 

学校訪問Ⅱ!!

こんにちは。moi!!

 

ついにフィンランドは氷点下を迎え出しました。

 

ちょっと前までは最低気温5度とかだったような気がするのに、最近では最高気温が5度です。

 

お蔭さまで、ごりっごりのもふっもふの冬服を買ってしまいました。

 

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写真だとまあふつうに見えるんですけど、着てみるともこもこしていてかなりあったかいです。南極探検隊になったような気分になります。

 

フェザー30%、ダウン70%で179€のところシーゾナルセール20€引きで159€でした。(丁度今週は季節の変わり目ということで市内の多くの店でシーゾナルセールをやっています)

 

正直、太陽が出ていたころは持ってきた服を重ね着しまくれば何とか冬をしのげるんじゃないかと思ってたんですけど、氷点下の曇り空の下、風が吹いた瞬間諦めました。

 

 

 

さて、そんなくそ寒い中、二度目の学校訪問に行ってきました!

 

前回もそうだったんですけど、授業で配られる論文読んでるだけだと知識として知って理解しておしまい。。となってしまうことも多い中、実際にみたり生徒の声を聞いたりすると、疑問や批判、新しい視点等がどんどん浮かんできて、、

 

やっぱり頭でっかちはあかんなア

 

と思わされました。

 

というより本当は、論文を読むだけでいろんなところに考えを飛ばせるようになるのが理想なんでしょう。マア、オイオイ。

 

そして、これは授業中もそうなんですけど、日本のそれと比べようにも意外と日本の学校の仕組みを知らなかったり、調べてみたら自分の経験がもうすでに過去のものになっていたりして

 

大学三年の後期、知りたい欲に震えています。

 

今まで大学に入学しても、結構受験的な「お勉強」に縛られていたところもあったので、嬉しい限りです。

 

これも留学の良さのうちの一つですかね!

 

 

今回は、図工、音楽、数学の三教科を見させていただきました。ただ授業に関しては前回の訪問以上に特徴的だったことはなく、今回は生徒や先生たちの実際の言葉からフィンラド教育について感じたことをかいていきたいと思います。また、言及していないところは前回と同じだった(教室はオートロックで生徒は廊下待機だったとかICT完備とか)か僕が気づかなかったか、どちらかということでお願いします:) 

healsp.hatenablog.com

 

今回訪ねさせていただいたのは、中高併設の公立校です。中高の通常コースに加え、中学校にはインターナショナルコース、高校には数学特化コースが設けられています。

この数学特化コースはレベルが高く、ヘルシンキ市内全域及びエスポーやヴァンタ―といった隣町からも応募があるとのこと。そのため学生寮があります。

 

学校間の格差の少なさがウリのフィンランドですが、特にヘルシンキを中心としてこういった特色校の競争は以前激しいそうです。

 

特にこの学校は、national core curriculum に沿った授業をしているものの地方自治体には所属しておらず、国からfundをもらっているだけなので細かな決定を全て学校単位で出来ます。(普通、学校は市に所属して大まかな方針は市が決めます。)

 

でも、特色校とはいえやはり学費は無料。給食費も、無料。

 

 

1.この学校のシステムで一番驚いたのがWilma System。

 

教員、生徒、親、子の三者の情報共有は全て、なんと、オンライン!!

しかも、このシステムの大元は国と地方自治体。数年前に導入されたらしく、国レベルでの普及率はわかりませんが特別モデル校の特殊ケースというわけでもなさそうです。

 

例えば、生徒の履修授業、成績、出欠管理、親への連絡、親からの連絡、宿題、etc.、これらのことは全てオンラインで行われます。

 

また先生は特定の生徒や親何人かを対象にしたforum(ラインやメッセンジャーのグループのようなもの)を作ったりすることも出来ます。

 

大学のオンラインシステムをそのまま中等教育に移行した感じです。

 

導入当初は保護者からの反対や問い合わせも多かったといっていましたが、今では問題なく機能しているそうです。

 

 

2.次に印象的だったのは「trust」という言葉です。

 

先生が学校の方針を説明するときに何度も使った言葉です。そういえば前回の学校でも同じようなことを言っていましたね。

 

学校の方針として、基本的に生徒を信頼することからすべてが始まるとのこと。親や教員の不必要な干渉はいらない。

 

この考えがよく表れていたのが数学の授業でした。

 

演習の時間に、みんな一生懸命数学の問題を解いている中、一部の生徒は全く無関心でボーっとしてたり、おしゃべりしてたり音楽聞きながらやってたり、内職してたり、クラス全体としてまとまりがある感じではありませんでした。

 

そこの指摘に対する先生の回答が「信頼」。

 

例えば宿題は出すものの(フィンランドの学校に宿題がないっていうのは嘘です!!笑)、授業ごとに「次の授業までにやってくる」宿題として出すのではなく、「学期末までに終わらせる」宿題として出すのだそうです。

 

一部の生徒はもうすでに授業範囲が終わってしまっているし、例え追いついていなくても最終的に帳尻が会えばそれでいいという考え。先生は、生徒がきちんと自分のペースで勉強すると「信じて」いるわけです。(なんか騙されているような気になります。。。)

 

前の学校の英語の先生も同じようなことを言っていましたが、その先生は何年も教員をやっていれば生徒のサボるポイントやタイミングは分かってくる。そこを抑えれば後は自由にやらせればいいといったようなことを言っていました。

 

おそらくこうした信頼の裏には小さなクラスサイズと先生と生徒の豊かなコミュニケーションがあるのでしょう。

 

3.このコミュニケーションに関しては、先生と生徒の距離感の近さが大きいと思います。

 

僕の中では最初は、日本語には敬語の概念が強いから、、、ってことで片づけてたんですけど、インターナショナルコースの子たちに話を聞いたときオーストラリア、イギリス、アメリカから移住してきた子たちが

 

「始め、このフランクさになれるのに大変だった」

「この距離感は異常」

 

何て口々に言って盛り上がっていたので、言語の問題だけではなさそうです。

 

フィンランドの学校では新入生から校長先生まで全員がお互いをファーストネームで呼び合います。「その方が生徒にアプローチするのが簡単でしょ?」と満面の笑みで。

 

 

4.また、同じく生徒からの言葉で印象的だったのが次の言葉です。

 

「年のいった先生は自分の教え方を曲げようとしないけど、若い先生は私達がわからないといったら一生懸命、私達がわかるまで別の教え方を探したり考えたりしてくれるの。」

 

さっきの数学の授業もそうですが、今まで授業を行くつか見てきて、はっきりと「生徒が主役の授業」であるということが伝わってきました。先生がそう「思っている」だけじゃなくて、生徒に「先生がそう思っている」ことが伝わるくらい、そして生徒が「そう思」えるくらいにはっきりと。

 

そういえば学校について最初にして頂いたイントロダクションのプレゼンの中で、(おそらく)OECDの「授業中の静けさランキング」というデータが紹介されました。フィンランドはかなりの下位にランクインする中、日本はなんとトップ。「(名指しで)日本と比べて私達の教室はかなり騒がしくまとまりがありません。」と、妙に誇らしげに言っていたのが印象的です。

 

 

 

・・・と、いうことで、少し主観的なレポートになってしまいましたが、こんなもんです。

 

印象としては、フィンランド教育のいいところを網羅的に見れたなあ、という感じです。今後この良さを裏側で支えているものが何なのかをもっと深く観ていきたいです。

 もちろん、問題点も同じく探り出したいですね!

 

ではでは。moi moi!!

念願の学校訪問をしたよ、という話

こんにちは!moi!

 

ヘルシンキはいよいよ寒くなって参りました。

 

朝起きたら、、

 

2度。

 

ヒートテック・セーター・セーター・秋冬用ジャケット・ユニクロウルトラライトダウンというフル装備で登校しております。

 

本日の一枚はこちら

 

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部屋の窓からの景色。寮の中庭です。左下に見えますでしょうか、暖炉。

 

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マシュマロが焼けちゃいます。幸福の形。寒かった・・・

 

続いてこちら

 

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家から徒歩5分のところにある公共ビーチ。こちらでは・・

 

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こんなことができます。寒かった・・・。

 

 

と、いうことで、なんともいえぬスローライフを送っている僕ですが先日ようやく、

 

念願の・・・

 

学校見学に行ってまいりまいした!!

 

エスポーというヘルシンキのとなりの市にある公立中学校を見させて頂きました。

 

本の学校と似ているところ、全く違うところ、すごいなーと思ったところ、そうでもないな、と思ったところ、注目すべきところがたくさんあって刺激的でした。

 

今回はとったメモを参考に見たもの、聞いたことを出来るだけそのままの形で、少し紹介したいと思います。

 

学校に入ってまず通されたのは職員室。北欧らしいデザインと色使いのモダンな職員室でした。working room とrelaxing roomがあってrelaxing room が一番多きかったのが印象的でした。システムキッチンやビーズクッション等もあってショールームで展示されているリビングみたいな。プリントの山とかほとんどもなく全体的にすっきりしてました。

 

最初に見学した授業はhealth care の授業。一番近い科目は家庭科でしょうか。授業テーマは摂食障害について。先生がパワポのスライドを使って説明しつつ、たまにペアディスカッションをはさみつつ、といった具合。

 

ここでまず驚いたのは、この授業all englishで行われているということ。中三です。

anorexia とか bulimiaとか、小難しい単語バンバン出てきてました。

 

中三にして英語「で」学ぶ。どっかの国立大学が最近ようやくいいだしたことですね。

 

でもよくよく話を聞くと、all englishのクラスは選択制で基本的には親の方針で受けるかどうか決まるそうです。そしてとってる学生の大体は幼稚園、小学校から all english になれてるのでここまで英語が使えるのであって、全生徒が、ということではありません。

 

続いては英語の授業。これは、英語「を」学ぶ授業です。

普通の英語の授業ってことですね。

 

でもねでもね

 

ここでもやっぱり all english でした。

 

英語「を」英語「で」学ぶわけですね。

 

生徒の英語力にはかなり差があるように見えました。小説「蠅の王」を教材にして章ごとに読んで、先生が作った質問(彼はなぜそのような行動をとったのでしょう、みたいな国語チックな質問)の答えを英作文してノートに書いて、それについてディスカッション、という流れだったのですが、全部の文が I think で始まって30ワードくらいしか書いていない生徒もいれば、一つの質問に100ワード以上淀みなく書き進める生徒も居ました。生徒とも少し喋ったのですが、一言二言で会話が終わってしまう子もいれば何の問題もなく普通に会話できる子もいました。

 

でも、さらっと言いましたが、教材は「蠅の王」です。当たり前のように原書。簡略化されたペンギンブックスとかじゃありません。

 

この本は難しいから、一週間に2章しか読めないの、と先生が言った時思わず笑ってしまいました。

 

まあ、フィンランドの英語力に関してはいろいろ要因があるようなのでまた別で調べて書こうと思います。

 

最後の授業は生物。ちな all english 。

youtubeに上がってる教材動画を使って、キノコの構造と部位の名前を学びます。

 

なんというかこちらは一番僕の知ってる日本の授業に近い形でした。考えるというよりかは、覚える。書いて覚える。all English であること以外は特に変わったことはありませんでした。(先生も、この授業つまらないわよね、と終わった後言ってました)

 

 

さてさてそんな感じで始まり追わった学校見学ですが、全体を通して気になったことがいくつか。

 

 

1.全教室ICT完備!!

プロジェクターと、スクリーン、PC、あの手元映すやつ、音響、etc、これらが「全教室」に備わってました。先生もパワポだったりyoutubeだったりを使って授業します。もちろん黒板も使いますがあくまで補助的な用途で。

 

2.制服がない

フィンランドではいまや制服がある学校はもう存在しないそうです。生徒は思い思いの服を着てました(しゃれつくかと思いきや男子は大体スウェットかジャージ)。髪の色も自由。もちろん長さも。あまりにもセクシーすぎる場合を除いて見た目に関する制限はないといっていました。

 

3.完全移動教室性

なんと休み時間は生徒は教室から追い出されてしまいます。教室がオートロックで中から先生が開けてくれないと教室に入れないので、授業が始まるまでは生徒は廊下で待機します。廊下にずらっと子供たちが座ったり寝っ転がったりしている光景はなんとも圧巻でした。授業資料などをいちいち職員室と往復させずに済むので先生の負担はかなり減るそうです。ちなみに(もちろん?)席は自由席でした。

 

日本だと下手したら同じ場所に同じメンバーと何時間もずっと一緒にいるわけで、そういうところでの生徒への影響とかも、案外違ってきたりするのかもしれませんね。

 

4.クラスサイズは基本20人

どのクラスも20人程度で構成されていました。男女比はクラスによってまちまちです。

 

 

パット思いだせる限りではこれくらいです。あと言っておきたいことは部活がないことくらいですかね。放課後の活動は完全に学校は無関係。

 

カリキュラムや特別教育についても聞いたのですが、それに関してはもっと大きいところの制度的な話になってしまうので、キチンと授業でやり終わってから書こうと思います。

 

来週、また別の学校を訪問させていただくことになっているので、また新しい発見をしてきたいと思います。

 

ではでは。moi moi!

 

P.S.

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写真は給食だけでご勘弁。もちろん教室ではなく、大きなカフェテリアで食べます。調理室直結でセルフサービス。ポテトと野菜は取り放題。パンも食べ放題(多分)

 

もちろん、無料です。

 

アメリカ人に発音を褒められたら本当に嬉しいのかという話。

こんにちは。moi!

 

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通学路の公園に謎の鳥が大量出没したというただそれだけの話です。こいつら結構でかいんですけど伝わらないのが残念です。

 

 

前回の記事の後、日本にいる僕の司令塔から「君最近のブログちょっとやばくなってきてるよ。もっと洗剤と柔軟剤間違えたみたいな感じのやつないの?」というありがたいお言葉をいただきました。

 

healsp.hatenablog.com

 

確かに。硬い。固い。堅い。

 

でも前回は、レポート提出前のてんやわんやの中だったので勘弁してください。みなさんレポートの下書きの下書きの下書きを文字にしたらあんな感じになりませんか・・??

 

と、いうことで、こんな僕でも面白い話の一つぐらいみっかるだろうと探し始めた留学一か月目です。

 

そして今回のテーマは

 

「英語のアクセントについて」

 

です。堅い!!

 

まあ洗剤と柔軟剤を間違えるのはおいおいやるとして、、

 

 

ヘルシンキについてから、基本的に留学生同士で時間を過ごすことが多いので、いろんな国のアクセントを持った英語に毎日触れているわけです。

 

英語以外の外国語を良く知ってるわけではないので、詳しいことはわかりませんが、アクセントの置き方、各母音の発音の仕方、ピッチ、英語のいろんな側面がそれぞれの言語の特徴に沿って引っ張られてる感じです。

 

 

 

で、一つ例として、先生が強烈なお国訛り(南米出身といっていたのでスペイン語とかポルトガル語訛り・・?)で授業するクラスがありまして、あまりにもアクセントが強いので正直全然内容が頭にはいってこないんですよ。

 

流石にこれはやりすぎ・・と思って周りの友達に聞いてみたら

 

めっちゃわかるわー

 

みたいな。

 

僕の周りでは僕を含め基本的にアメリカ英語っぽくというか、アメリカ英語に寄せて喋っている人が多い印象を持ってます。(特にアメリカ英語とは、みたいなところに具体的な意見も知識も持ってないのでそこのところは見逃してください。敢えて言うならばアメリカのTVドラマで主に多数派として使われている英語のことを想定しています。)

 

でも中には彼女のように明らかにクセのあるというか、僕も自分がきれいなアメリカ英語を喋れてるとは全く思っていないけれど、その比じゃないというか、一瞬英語かそうでないか迷うようなアクセントを持っている人も一定数いるんですよね。僕は毎日発音練習してるんですけど、そういうのないの?みたいな。

 

アメリカ英語を一つの「お手本」として勉強してきて、一生懸命Rの巻き舌を練習してきた身としては、ここで一つ疑問が持ちあがります。

 

彼らは自分の発音についてどう思っているのだろうか。。。

 

考えられる可能性は3つ。

1.実はアメリカ英語に直したいと思っている(僕が実はあいつの発音超やべーって誰かのブログに書かれてる感じ)

2.アイデンティティやプライドとしてわざとお国訛りで喋っている

3.特に何も考えていない

 

皆さんはどうですか?自分の英語の発音についてどう思っていますか?帰国生の発音にあこがれたことがありますか?自分のアクセントにプライドを持っていますか?

 

僕個人としては、「アメリカ英語流暢に喋れるやつかっけー期」を丁度通り越して3番に移行しつつある感じです。強いてアメリカ英語を喋っている理由をあげるならばアメリカ英語を学んでおけば安パイだから、でしょうか。特に日本語アクセントにアイデンティティを見出したりプライドを感じたりしたことも今のところあまりありません。

 

なんでこんなことを考えているかといえば、何人か共感してくれればうれしいんですけど、小学生中学生の時、海外の国といえばアメリカ。英語といえばアメリカ。歌も映画も日本じゃないものは大体アメリカ。こんな感じの世界観でした。もう流石に外国=アメリカの時期は終わったとはいえ、英語に関してはやっぱりなんとなく「正しい英語=アメリカ英語」的な感覚は残っていて

 

だからそういう価値観を全く共有できなさそうな人があまりにも周りにあふれだすと自然とちょっとした違和感みたいなのを感じてしまうんですよね。

 

ここで例によって話を大きくすると、英語って結局誰のもの何でしょうか(もちろん誰のものでもないけれど。。)。何をもってして正しい英語何でしょうか。英語って何なんだ!!

 

こうなってくるともはや発音云々だけでなく、スペルとか活用とか語彙とかそういうところまで関わってきますね。

 

まず、アメリカ合衆国で話されている英語と僕が中学校高校で習った英語は恐らく同じ英語だと思います。eat の過去形は ate。それ以外は✖。

 

でも今僕が使ってる英語はそれとは大分性質の違う英語を使ってるはず。共通語としての英語的な。リンガフランカ的な。こちらはeat の過去形がeatedでありうる言葉。伝わればいいじゃないか。ネイティブじゃなくても気兼ねなく造語作り放題。伝わればいいんだもん。

 

今、大文部科学省先生がcommunicative languageをやたらプッシュし始めたのは彼らの求める英語観が後者のほうにシフトしてきたってことなのかな。

 

確かに、英語をコミュニケーションのツールだと考えれば、コミュニケーションあっての英語であって、英語あってのコミュニケーションではないと感じます。(だから結構苦労してます笑)

 

僕は英語を勉強している時、「人のもの」を拝借して使用説明書を見ながらじょじょに使いこなしていくようなイメージをもっていたけれど

 

既に自分の中で自分のルールにそって持ってるものを、相手に伝わるように相手の持ってるものやルールを考慮に入れて使う、みたいな見方もできるような気がしてきました。こっちのほうが英語を使うハードル、ぐっと下がりますよね。

 

説明書が一個なら使い方も一個だけれど、それでないなら使い方は無限大ですよね。相手のルールに100%合わせて使ってもいいし、相手が自分のルールに合わせてくれることを期待してもいいし。どこで折り合いをつけるかは完全に自由です。

 

 

ただ、まあ現実として持ち札少なすぎだし、普通に会話に支障あるんで、おとなしく「英語」勉強したいと思います。

 

moi moi!!

 

P.S.

 

アメリカやイギリスが長年かけて作り上げてきたという言葉の深さを考えると、学校では「チャラい英語」だけでなく「折り目正しい英語」もきちんと教えてあげてほしいなとも思います。

”人差し指と中指まげてちょんちょんするあれ”使い過ぎ問題。多文化共生社会って難しい・・・

こんにちは。moi!

 

本日はintroduction to Finnish culture and society という授業のグループアサインメントの一環でヘルシンキ近郊の島に行ってきました。

 

結果・・・

 

 

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リスに・・

 

 

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襲われました。

 

餌よこせてきなね。もうちょっと遠慮しても良かったんじゃないかな。君。

 

胸キュンでした。

 

 

と、いうことで本日は

 

”人差し指と中指まげてちょんちょんするあれ”

 

について書こうと思います。

 

海外ドラマなどよく観る人はなじみがあると思います。あと海外かぶれの日本人をいじりたくてしょうがない人とかも良く知ってると思います。ちょんちょんするあれ。両手人差し指中指を立てて二回軽く曲げるあれです。

 

文字に書き起こすとすると

 

””(クオーテーション)

 

ですね。

 

日本語でいうと、所謂、が一番近い言葉だと思います。

 

意味としては、言葉通りの意味じゃないよ、裏にいろんな含意が隠れてるよ、今あえてこの言葉つかってるよ、上手く説明できないけど(いちいち言葉にしないけど)なんとなくわかるでしょ僕の言いたいこと、、みたいな感じではないでしょうか。

 

凡例としては、超絶ぶりっこ女子のことについて話している時に

 

「彼女って”かわいい”(☚『か』の直後あたりで二回ちょんちょん)よね」

 

みたいにして使います。

 

さて、このちょんちょん、日常会話の中で使われることももちろんあるのですが、最も多く使われる授業があります。

 

それが多文化共生教育の授業。

 

カルチャーギャップや移民問題、マイノリティに差別などが主にテーマとなっている授業です。

 

この授業、中々先生が強烈な人で、世の中にいかにステレオタイピングや偏見、先入観が隠れているか、いかに人々がそれに無意識的であるかを実体験に基づいて漫談風にマシンガントークしてくれるので、ああもっと英語聞けたらいいのにと毎回思わされます。

 

さて、この授業の冒頭で先生がいったことが僕らをちょんちょん地獄へと陥れることになります。

 

それが

 

「文化ってどこにあるの?社会ってどこにあるの?誰がつくったの?そんなもの存在しないじゃないか」

フィンランド人はシャイだって言う人、それ君があったフィンランド人がシャイだっただけでしょ?そもそもフィンランド人って誰のこといってるの?」

 

もちろんこの問もきっと先生の中ではクオーテーションだらけだったと思います。

 

 

それはさておき、こんなことをいわれてしまった学生たちは意見を言う時にもあらゆる言葉に敏感にならざるを得ません。

 

”文化””社会””マイノリティ””価値””○○人”etc...

 

あらゆる言葉にあらゆる意味可能性が含まれていること、普段使っている言葉の中に自分でも気づかない含意が含まれていること、実はよくわかっていないのになんとなくわかった気になって使っている言葉があること

 

その世界は膨大すぎて思わず考えるのをやめてしまいたくなるくらいです。

 

発言する学生も言葉を何度も説明しなおしたり、形容詞をいくつもつけたりして試行錯誤している感じ。

 

さて、このクオーテーション問題、この一教室だけの問題ではなくて、フィンランド全体の問題にもなっているようです。

 

実はフィンランドは今まで同質性の非常に高い国だといわれてきたそうです。どこかのアジアの島国みたいですね。

 

確かにすごい白人社会だなーと思います。アジア人はあまり見かけません。

 

それでも最近の移民難民問題に従ってそうした自己認識をただす動きがはじまっています。またそうした認識の変化がすでに昔から存在した様々なマイノリティの再認識にもつながっているようです。(例えば先住民であるサーミ人や歴史的関係から昔から住んでいるロシア系、ロマ人、ユダヤ人、タタール人などは昔からの問題。言語的マイノリティという面では彼らの言葉に加え公用語の一つであるスウェーデン語話者もそのうちの日一つに数えられる。)

 

そうなって初めてちょんちょんがたくさん必要な状況が生まれてきたわけですね。

 

そこで生まれる議論は例外なく考えなければならないことが沢山あって、極端にリベラルな人はなんでもおっけ―!って感じなんでしょうけど、そういう考えは寛容に見えて文化や社会を個人のレベルにまで徹底的に解体してしまって、”自文化”を守りたい人達の反対を押し切ってまでをそこを許容する確信をどうやって持てばいいかは全く不明だし、だからといってそういった保守の考えは誰かを疎外せずには存在できないようだし。

 

それに、アメリカ人の話で、リベラルを追求しようとした彼らはちょっとした言葉にすぐ規制やクレームがつくある意味で非常に窮屈な環境が生まれてきているそうです。今話題のポリティカルコレクトネス問題というやつです。

 

たとえばこの直前の文章も「いや、アメリカじゃなくてU.S.じゃなきゃダメでしょ」みたいな突っ込みが入る・・かもしれません。

 

宗教はどこまで受け入れられうるのか、文化はどこまで行為の「正当な理由」として認められるのか(大学でレポートを剽窃した学生がそれを文化だと訴えて見逃してもらうという例が少なからずあったそうです)。差別と区別の境界線はどこに引かれるべきなのか、、問題は山積しています。

 

これらの問題に対して先生は、「文脈」という言葉を沢山使っていました。文脈をなくしてはどんな言葉も差別的になる可能性があると。確かに正しい答えが一つだけなわけがないので、「文脈」や「柔軟性」が最低でも必要になってくるものだと思います。

 

でもそうした言葉はある場面では非常にうまく機能する一方で、そのあいまいさが隠してしまうものもあるし、悪用されやすい言葉でもあります。

 

一体全体どうすればいいのでしょう。ヘルプミ―。アプア!(←フィンランド語で助けての意)

 

 

こんな風に毎回圧倒されています。。頭痛がしてきます。。という話でした。

 

僕自身がこの場で意見を言うとしたら

 

むずかしい!!!

 

 

の一言くらいでしょうか。まあ一学生が気軽にとやかく言える問題でもありませんよね。問題を大きくして話をいい感じにまとめるのは僕の悪い癖です。

 

で、最後の最後に思ったことなのですが

 

この問題は本当に難しいと感じていて、一人の力じゃどうにもならないのではないかと思います。

 

哲学的基礎、科学的データや理論、臨床的方法論、政治、そして現場、各方面が各方面のやり方で力を合わせてやっとこさ1mm動いた!みたいな感じでしょうか。

 

だから、”””””きわめて同質性が高い”””””日本でもそういう問題に向き合う大きなプラットフォームが必要になってくるのかもしれません。答えが出なくても議論すること自体に意味があると思うし。

 

moi moi!

 

P.S. まあまず大切なのは、半径10㍍、千里の道も一歩から、ですね。

 

 

なんだかんだ言って学校で習ったことは役に立つかもしれない話

こんにちは。moi!

 

授業の予習復習が増えてきてあわあわしてるぼくです。

 

一個授業受けるだけでわりとぐったりなので、一日に3コマ入ってた日なんぞや後半英語がお経のように聞こえてくる次第であります。

 

唯一の救いはヘルシンキの空気。

 

街全体がリラックスしているので、ちょっと街を歩くだけでなで肩になること間違いなし。都市と自然の距離感とか関係性が丁度いい。。。

 

f:id:healsp:20160915041650j:plain↑夕日を見るためだけに海まで歩いていって、ただ見続ける、、という胸熱イベント。

 

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ヘルシンキの海鳥は基本偉そう。横柄で強欲。そして全員デブ。

 

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↑そして目抜き通りではしゃれおつクラシックのストリートライブが毎日行われます。最初は感動して立ち止まっていたものの、演目が(おそらく)毎日同じなので今はガン無視です。次替わりなのかな。夏限定とか?

 

 

それでそれはいいとして、

 

先日友人に誘われてヘルシンキの港からフェリーですぐのところにある島に行ってみたんです。

 

 

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島を練り歩いていて、BBQスポット的なところを見つけて

 

一休みするか、、的なノリになったところで・・・

 

 

イタリア人ギターを取り出す。

 

イタリア人歌いだす。

 

合唱。

 

 

となったわけです。

 

ここからが今回の本題。

 

おやおやこれは楽しいぞ、と思いながらイタリア語わからないまま適当ににやにやしてたら、一人が

 

「なんかイタリアの歌しってるか」と聞いてきました。

 

・・・皆さん、イタリアの歌なにか知ってますか?

 

僕は素晴らしい瞬発力で「オーソレミヨ」と答えました。音痴な鼻歌つきで。そっから10分くらいオーソレミヨトークですよ。フィンランド人がサウナで急にオーソレミヨ歌いだした話とかなんとか。

 

その時僕は母校でオーソレミヨを習った時に

 

「何でイタリア語覚えなあかんねん。日本語でええやろ」

 

という愚痴を友人と共有してたことを思い出していました。なぜかエセ関西弁。

 

でもイタリア人を前にしてオーソレミヨの歌詞は僕の知っている唯一のイタリア語。まあ、適当な会話のきっかけってやつですね。

 

 

その日だけじゃなくで、他にも、源氏物語に詳しい中国人がいたり、授業中のディスカッションで聖書の話で盛り上がるとか、フランス革命に影響を受けてる社会問題とか、

 

まあ色々あるわけです。

 

いわゆる教養ってやつですかね。これもまたいろんな議論があるのでしょうが。。

 

とにかく、毎日今まで自分が意識してこなかった海馬の奥の奥に眠っていた「なんか中学の先生がいってたナア」みたいな話がぽっとわき出てくる体験を今沢山しています。これは大学に入学した時も少し感じたけれど、その日じゃないくらい毎日いろんな領域からの会話が求められていると思います。

 

数学や理科はどんなんだという疑問もありますが、それも数学的思考や科学的世界観など無意識のレベルで今の生活を支えてるのではと想像しています。

 

中高における知識観を教養主義に押しとどめようとは思わないし、会話のコンテンツ力で言えば学校の外で得るもののほうがはるかに大きいと思うし

 

英数国理社万歳\(^o^)/中学高校生のみんな!学べ!将来絶対役に立つぞ!

 

なんて満面の笑みで言われたら鳥肌ものではあるのだけれども

 

少なくとも当時無機質でひたすら点数に換算されていくだけのものだった知識が、今はすごくライブ感があって、「必要」なものにすらなっているという事実。

 

全員が学校で学んだことを全部活かして人生を作っていくわけではないけれど、それでも学校で学ぶことの全てが「いつか生きるかもしれない」凄く開かれた存在であるのだなぁと思いました。

 

でもかといって学校で習うことはあまりにも抽象的で現実味を感じることは難しいから、希望的観測だけをモチベーションにして学び続けるのはちょっと非現実的ですよね。

 

となると開かれた知識を閉じないように生徒に伝えるのは先生の授業設計とお上様の学習指導要領の責任なのでしょうか。

 

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moi moi!