北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

”人差し指と中指まげてちょんちょんするあれ”使い過ぎ問題。多文化共生社会って難しい・・・

こんにちは。moi!

 

本日はintroduction to Finnish culture and society という授業のグループアサインメントの一環でヘルシンキ近郊の島に行ってきました。

 

結果・・・

 

 

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リスに・・

 

 

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襲われました。

 

餌よこせてきなね。もうちょっと遠慮しても良かったんじゃないかな。君。

 

胸キュンでした。

 

 

と、いうことで本日は

 

”人差し指と中指まげてちょんちょんするあれ”

 

について書こうと思います。

 

海外ドラマなどよく観る人はなじみがあると思います。あと海外かぶれの日本人をいじりたくてしょうがない人とかも良く知ってると思います。ちょんちょんするあれ。両手人差し指中指を立てて二回軽く曲げるあれです。

 

文字に書き起こすとすると

 

””(クオーテーション)

 

ですね。

 

日本語でいうと、所謂、が一番近い言葉だと思います。

 

意味としては、言葉通りの意味じゃないよ、裏にいろんな含意が隠れてるよ、今あえてこの言葉つかってるよ、上手く説明できないけど(いちいち言葉にしないけど)なんとなくわかるでしょ僕の言いたいこと、、みたいな感じではないでしょうか。

 

凡例としては、超絶ぶりっこ女子のことについて話している時に

 

「彼女って”かわいい”(☚『か』の直後あたりで二回ちょんちょん)よね」

 

みたいにして使います。

 

さて、このちょんちょん、日常会話の中で使われることももちろんあるのですが、最も多く使われる授業があります。

 

それが多文化共生教育の授業。

 

カルチャーギャップや移民問題、マイノリティに差別などが主にテーマとなっている授業です。

 

この授業、中々先生が強烈な人で、世の中にいかにステレオタイピングや偏見、先入観が隠れているか、いかに人々がそれに無意識的であるかを実体験に基づいて漫談風にマシンガントークしてくれるので、ああもっと英語聞けたらいいのにと毎回思わされます。

 

さて、この授業の冒頭で先生がいったことが僕らをちょんちょん地獄へと陥れることになります。

 

それが

 

「文化ってどこにあるの?社会ってどこにあるの?誰がつくったの?そんなもの存在しないじゃないか」

フィンランド人はシャイだって言う人、それ君があったフィンランド人がシャイだっただけでしょ?そもそもフィンランド人って誰のこといってるの?」

 

もちろんこの問もきっと先生の中ではクオーテーションだらけだったと思います。

 

 

それはさておき、こんなことをいわれてしまった学生たちは意見を言う時にもあらゆる言葉に敏感にならざるを得ません。

 

”文化””社会””マイノリティ””価値””○○人”etc...

 

あらゆる言葉にあらゆる意味可能性が含まれていること、普段使っている言葉の中に自分でも気づかない含意が含まれていること、実はよくわかっていないのになんとなくわかった気になって使っている言葉があること

 

その世界は膨大すぎて思わず考えるのをやめてしまいたくなるくらいです。

 

発言する学生も言葉を何度も説明しなおしたり、形容詞をいくつもつけたりして試行錯誤している感じ。

 

さて、このクオーテーション問題、この一教室だけの問題ではなくて、フィンランド全体の問題にもなっているようです。

 

実はフィンランドは今まで同質性の非常に高い国だといわれてきたそうです。どこかのアジアの島国みたいですね。

 

確かにすごい白人社会だなーと思います。アジア人はあまり見かけません。

 

それでも最近の移民難民問題に従ってそうした自己認識をただす動きがはじまっています。またそうした認識の変化がすでに昔から存在した様々なマイノリティの再認識にもつながっているようです。(例えば先住民であるサーミ人や歴史的関係から昔から住んでいるロシア系、ロマ人、ユダヤ人、タタール人などは昔からの問題。言語的マイノリティという面では彼らの言葉に加え公用語の一つであるスウェーデン語話者もそのうちの日一つに数えられる。)

 

そうなって初めてちょんちょんがたくさん必要な状況が生まれてきたわけですね。

 

そこで生まれる議論は例外なく考えなければならないことが沢山あって、極端にリベラルな人はなんでもおっけ―!って感じなんでしょうけど、そういう考えは寛容に見えて文化や社会を個人のレベルにまで徹底的に解体してしまって、”自文化”を守りたい人達の反対を押し切ってまでをそこを許容する確信をどうやって持てばいいかは全く不明だし、だからといってそういった保守の考えは誰かを疎外せずには存在できないようだし。

 

それに、アメリカ人の話で、リベラルを追求しようとした彼らはちょっとした言葉にすぐ規制やクレームがつくある意味で非常に窮屈な環境が生まれてきているそうです。今話題のポリティカルコレクトネス問題というやつです。

 

たとえばこの直前の文章も「いや、アメリカじゃなくてU.S.じゃなきゃダメでしょ」みたいな突っ込みが入る・・かもしれません。

 

宗教はどこまで受け入れられうるのか、文化はどこまで行為の「正当な理由」として認められるのか(大学でレポートを剽窃した学生がそれを文化だと訴えて見逃してもらうという例が少なからずあったそうです)。差別と区別の境界線はどこに引かれるべきなのか、、問題は山積しています。

 

これらの問題に対して先生は、「文脈」という言葉を沢山使っていました。文脈をなくしてはどんな言葉も差別的になる可能性があると。確かに正しい答えが一つだけなわけがないので、「文脈」や「柔軟性」が最低でも必要になってくるものだと思います。

 

でもそうした言葉はある場面では非常にうまく機能する一方で、そのあいまいさが隠してしまうものもあるし、悪用されやすい言葉でもあります。

 

一体全体どうすればいいのでしょう。ヘルプミ―。アプア!(←フィンランド語で助けての意)

 

 

こんな風に毎回圧倒されています。。頭痛がしてきます。。という話でした。

 

僕自身がこの場で意見を言うとしたら

 

むずかしい!!!

 

 

の一言くらいでしょうか。まあ一学生が気軽にとやかく言える問題でもありませんよね。問題を大きくして話をいい感じにまとめるのは僕の悪い癖です。

 

で、最後の最後に思ったことなのですが

 

この問題は本当に難しいと感じていて、一人の力じゃどうにもならないのではないかと思います。

 

哲学的基礎、科学的データや理論、臨床的方法論、政治、そして現場、各方面が各方面のやり方で力を合わせてやっとこさ1mm動いた!みたいな感じでしょうか。

 

だから、”””””きわめて同質性が高い”””””日本でもそういう問題に向き合う大きなプラットフォームが必要になってくるのかもしれません。答えが出なくても議論すること自体に意味があると思うし。

 

moi moi!

 

P.S. まあまず大切なのは、半径10㍍、千里の道も一歩から、ですね。