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北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

雪が降ったので「英語で自分らしく」ってどういうことだろうと考えてみた話。

こんにちは!

 

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ちょっと靴が汚いですが、それはおいておいて、、

 

そうです!

 

ついに!

 

 

雪!!!

 

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実は降雪が昨日だったので今日は少し地面が見えてますが、昨晩までは一面銀世界に近いものがありました。ヘルシンキ以北はもうすでに先月から銀世界突入していたみたいなのですが、やっと、です。

 

僕のルームメイトの香港人はこれが初雪だったみたいで、「結構しょぼいね。もう飽きたわ」といいつつ、帰り道に「ちょっと散歩して帰るから先帰ってて」などといってポーカーフェイスに隠しきれぬ興奮をのぞかせていました。

 

少し前まではまだ秋を感じられたのに、もう完全に冬。超冬。これからほとんど毎日が最高気温氷点下の世界。。

 

唯一の救いは今日、久しぶりに太陽を拝めたことです。

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一週間以上ちゃんとした太陽を見てなかった気がします。

 

 

てなわけで、いや、雪とは全く関係ないけれども、今回は前回に引き続き英語について書こうと思います。

 

というよりは、言葉、といった方が正しいのかもしれません。

 

今週から始まっているterm2の授業で、文化という存在を言語学の立場から分析してみようという文脈があって、ソシュールの一般言語学講義の一部を読む機会がありました。

 

日本語で読んだことも入門書も読んだことがなかったので、課題部分を読み終えるのに随分と時間がかかってしまいました。

 

でも時間をかけた分だけ、普段何気なく行っている言葉に関する全ての行為を捉え直してみたらこれは面白いぞ!という気概が生まれたというわけですね。

 

(とはいえ、ここで思ったことはソシュールと結び付けてとか、他の哲学理論がどうのこうのということではまったくなく、ほんとに日常生活で感じたことに過ぎないのでそういう気持ちで読んでくれるとありがたいです。。)

 

ということで言葉ねえ、、なんてぼんやり考えていたら、どっかで誰かが言っていた言葉を思いだしました。

 

 

"it is difficult to be yourself when you speak in a foreign language"

 

 

とかなんとかそんな感じの。多分授業中のディスカッションとかだったかな?

 

日本人の留学生の友人や留学経験者の先輩で同じようなことを同じような表現で言っていた人を何人か知っています。

 

この表現を聞いたときにすごく面白いなーと思ったのが、yourself と language がまったく別の切り離されているもので、言葉のない自分がまず先に存在して、言葉がそれを可能な限り本物に近いように写し取っているというなような感覚が、ごく当たり前の前提として敷かれているように聞こえたところです。

 

この前提に基づけば、一つ一つの言葉にはそれぞれ(主観的なものとはいえ)色がついているはずなので(例えば、アホとバカの違いのように。せやろ?そうだろ?そうでしょ?のように。)、普段からそうした色を繊細に感じて、また、それらを自分と照らし合わせながら自分をありのままに表したり、また隠したりするために丁寧に選んできた人、使い分けてきた人ほど、外国語でのコミュニケーションで「自分らしくいられない」という感覚を特に強く持つのではないでしょうか。レパートリーが少ない上、言語そのものの違いからくる制限もあります(敬語とか)。

 

でも、上の感覚だと、どちらかというと「自分らしくいら(be)れない」というより「自分らしさを表現(express)出来ない」のほうがしっくりきます。

 

言葉と自分らしさの距離が遠いだけで、外国語でしゃべることは自分らしさそのものには全く影響がないような気もしてきます。

 

でも本当にそうなのでしょうか?

 

僕の個人的な経験から考えると、”it is~”の中には、上でいったこととは別の言葉と自分の関係性の在り方を含んでいると思います。

 

僕の日常英語表現がどこからきているかといえば、基本的にはアメリカのTVドラマ、映画、そしてYOUTUBEチャンネルくらいです。時々今までガイドしたツーリストさんが入ってくるかこないか。

 

そうすると僕のレパートリー一覧に彼らの言葉が色付きでそのままリストアップされるわけです。ここでいう色つきっていうのはジェスチャーとか語調とか声色とかそういうのも含んでいます。

 

で、いざそれを自分の言葉として使おうと思ったときが問題。

 

きっと僕はリストの言葉そのものだけを選んでいるつもりでも知らないうちに誰かその出どころの人達の言葉の色もそのまま解凍して使ってしまっている。

 

結果的にそれを表現した自分が、その表現の出どころであった人達になってしまったかのような錯覚を得てしまう。

 

自分を上手く表現できないだけであればそこにあるのはもどかしさである一方で、自分が常に別の誰かみたいに感じられるようなこういう感覚はより「自分らしさ」という考えに強い影響力を持っているような気がします。特に教科書や日本人先生ではなく、異文化の中から言語を習得しようとしてきた人ほどこの傾向は強いと思います。

 

 

でも、こうした自分らしくいられないということは、必ずしも悪いことではないと思います。

 

今まで言葉を自分を表現するただの道具として扱ってきましたが、実態はもっと複雑で言葉と自分はお互いに影響しあえる存在だとも取れます。そう考えると自分らしくいられないのは、何か新しい自分が生まれているということ。

 

「自分探しの旅で自分見つかった人0人説」があることからもわかるように、何か一つ正解の自分があるなんて考えはばかげています。

 

英語が上手くなればなるほどきっと言語間の自分らしさの違いは縮まって(真ん中にではないにせよ)統合されていくと思うので、逆に今だからこその「自分分裂体験」を楽しむのもアリなのではないかと。

 

留学して自分を変えた!!みたい体験をたまに見ますがこういう言語的な要素も大きくかかわってるのかもしれませんね。

 

そんな僕は日々どうやったら日本語を喋ってるみたいな感覚で英語を喋れるのかを探っています。。。

 

 

さあ長くなってまいりましたが、最後に。

 

この、言葉と自分の関係性は外国語を通して初めて実感できたことではあるのですが、最終的には日本語の中でも同じようなことが言えると思います。

 

同じ日本語でも実は全員違う「言語」を喋っているのかもしれません。

ただ、外国語だとそれが顕著なだけで。。

 

そういう風に普段気にしない「言葉」に意識を向けてみたら、例えばお互いの不理解から起きる問題だったり、例えば意識高い系に流されて色々見失っちゃう問題だったり、そういうところの解決にもいい感じでつながったり繋がらなかったりしちゃったりしなかったり・・?あれ?教育系の話にもつながっちゃったり??

 

まあ日本語のこととか他のことを絡めだすときっとややこしくなるので、またいつかということで。。。

 

 

とりあえずこういうのも留学の良さですかね。

 

ではでは。moi moi!!

 

 

P.S.

確か学習指導要領の外国語修得の目的に、外国語を通して日本語を見つめ直す、みたいなことがあったような気がするのですが、「それめっちゃええやん!大事やん!!」と思った一方で、「そこまでやるか?」というのと「そこまでやる気あんのか?」ということも思いました。