北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

観察する力。

こんにちは!moi!

 

前回のブログから大分時間がたってしまいましたが、終わりの見えない怒涛のダークネスを無事乗り越え、何とか生き延びています。

 

正直なことを言うと一月はゴリっゴリに病んでました

 

クリスマス休暇の旅行疲れと新学期のストレス、寒さ暗さ暗さ寒さ、就活を始める友人、なんだかんだ誤魔化しきれなくなってきた自分の中の甘え、留学の姿勢に対する不安感、とにかくピンからキリまで色んなものが一気に降りかかってきてどえらいことになっておりましたとさ。

 

全部ビタミンDのせいにすることで何とか自分を保っていました。

 

その不安やらなんやらも時間があれば書いてみたいなと思います。

 

一つ思ったこととしては

 

たかが一年間の、しかも大体のことはあらかじめ決まっている何の変哲もない大学の交換留学なのに(一方では一から全部留学を作り上げている人もいるのに!)これだけ病んで色々考え詰めることができるなんて、なんと留学とはコスパのいい経験なんだろうと、感心感心です。

 

君の名はで感動して思わずつぶやいちゃうだけの感受性があるのであれば、とりあえず来てみて、流れに身を任せて日々を過ごすだけで、、、。あゝなんと素晴らしきコスパ。トビタテトビタテ。。(もちろん主体的に動けば動くほど得るもの感じることは大きくなっていくわけで、だらだら過ごせばいいってわけではないのだろうけれども!)

 

 

と、そんな不安定な精神状態の中でも時間は着実に流れていくわけで、その中でたとえ頑張れなくても最低限のことはきちんとこなしていくことで振り返ってみたら少なからず前に進んでいることに気づいてしまうわけで

 

先月ようやくトビタテに提出した計画の半分を完遂、残りも恐らく書いたとおりに行けるだろうという目処がつきました。一安心です。

 

 

 

計画の中には複数の義務教育の現場を訪問、見学することを盛り込んでいて

 

正直ほんとに学校なんてそんなにホイホイ行けるものなのか分からないままとりあえず来てしまった訳なのですが、良いご縁に恵まれて着実に色んな学校を見させてもらっています。(感謝。)

 

 

そこで今日はいくつもの学校を見学させていく中で感じた

 

「観察する力」

 

について書いてみよう思います。

 

今回はその観察する力とやらを自分の外にあるものを観察する力と、自分の内側を観察する力の二つに分けて考えてみたいと思います。

 

まずは外側を観察する力について。

 

これは普通に生徒が何人いるとか、机の形がどんなだとか、そういう奴ですね。

 

留学が始まる前、所属ゼミの授業の一環で近くの小学校を見学させていただく機会がありました。その時に先生から貰った指示は「何でもいいから目に映ったもの、気づいたこと、思ったことをそのまま書き留めなさい」といったようなものでした。

 

実際に学校に行ってみて、正直すごく困惑したことを覚えています。

 

正直何を書いていいのかわからなかった。

 

先生をはじめとして院生さんなどが物凄い勢いでペンを走らせているのを見て、(僕も何か一生懸命書いている雰囲気を醸し出しながら)この人達はいったい何をそんなに書いているのだろうかと不思議に思っていました。

 

その戸惑いはフィンランドの学校を初めて訪れたときもほとんど同じでした。

 

もちろん僕の知っている日本の学校とは全然違うところも多く、あれが違うこれが違うと騒いだり、事前に授業で習っていたことを思い出して答え合わせをしたりしてなんだかんだ充実した時間は過ごせたのは事実なのですが

 

今思うと少し「浅かった」かな、と思っています。

 

healsp.hatenablog.com

↑初めて学校訪問をしたときの感想をまとめた記事

 

もちろん、異国の学校を一校一回訪問したところで何がわかるわけでもなく、そうした表立った違いにばかり目が行ってしまうことは至極納得のいくことです。。

 

でもその後、授業と見学を何回か繰り返していく中でだんだんと自分の「観察」が変化していくことを感じました。

 

変わったことは二つ。視点の多さと深さ。

 

例えば教員経験のある学生はしきりに黒板やパワーポイントの使い方(デザイン)のことを気にしていました。これは実際の実践経験のない僕には絶対手に入らなかった視点だと思います。

 

他には放課後の掃除とか。僕は見学の度に子供達が学校空間をどのように捕らえていて使用しているかについてメモを取るようにしています。これはゼミの先生が教育と空間論を研究している影響だと思います。もしあの授業を取らなかったら、例えば学校に先生の目が行き届かない「子供の楽園」がどのように設置されていてどのように機能しているかなど、きっと考えもしなかったと思います。

 

またただ気づくだけじゃなくて、過去の記憶や、学んだ知識を引っ張り出してきてつなげて見たり強調して見たり比較して見たりと回数を重ねるごとに頭の中が今流行りのアクティブラーニング状態になって行くのを感じました。

 

定期的に見学を重ねて、並行して授業を受け、文献を読むことで初めて見学した時には絶対気づくことの無かったようなメモが増えていき、全体の量としても一回目とは比べものにならないくらいです。

 

そこにぼけっと突っ立ている人と、知識と経験によるバックグランドに支えられてそこにいる人では同じ景色を見ているはずなのに情報量には圧倒的な差が出て来てしまうのだなあ、と感心しきりです。

 

 

しかしそうやって目に映るもの耳で聞いたものをただただ書き留めていればそれで良いとは思いません。例えば大学の調査ですでに研究設計がされている中での見学などであれば話は別ですが、僕みたいに地図を広げるための見学なれば客観的な事実のほかにもう一つ耳を傾ける必要のある要素に気づきました。

 

それは自分の心の中の声。

 

これは教育を学ぶ人あるあるだと思いますが、日本ではおそらく全員がなんらかの形で教育に参加していて、教育を学ぶということは過去に自分が受けてきた教育を見直さざるを得ない行為でもあると思います。

 

ここから先はすごく感覚的なことで確証は持てないのですが、、

 

例えば給食とかを見てるとやっぱり懐かしい分けですよ。自動的に給食に纏わるエトセトラがフラッシュバックしてきたりなんかして。

 

他にも音楽の授業をみていて、いいなー、こんな授業うけてみたかったなあー、とか。

 

そういう風に学校現場を見ていく中で全く学問的ではないし、フィンランド教育とは全く関係ないけれども、とりあえず事実として浮かび上がってきた感情とか言葉を無視しないで一つ一つ丁寧に拾い上げていく。もし余裕があればそれを言葉にしていく。

 

そういった経験の積み重ねや残されたメモは今後どういった形であれ教育に関わって行く中で絶対生きて来るような気がしているのです。

 

納得のいく説明はできないけれど、とにかくそう感じます。(強いて言うならば自分の中にあるバイアスをそうすることで取り除けて、よりまっすぐな観察ができるようになる、というのはあると思います。)

 

そしてこの自分の声を拾い上げるという作業、さらにいえばそれを文章にして表現するという行為は想像以上にコツと技術がいるようです。

 

 

一つの場面から以下に多くの情報を手にできるか

 

これはこれから日本に帰ってからも心の中に留めておきたい課題かもしれません。

 

それでは。moi moi!