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北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

多様性と絶対的な正直さ

こんにちは。moi!

 

去年のいつだったか留学したての頃に、インターナショナルな環境における多様性の難しさ云々について書いたと思うのですが、今回はあれからまたしばらく時間がたって、見えてくるものも違ってきていると思うので

 

その再考、という形で何か書いてみたいと思います。

 

まずとりあえず今までの肌感覚とちょいちょいそれに関する授業から出来上がった僕の中での多様性にまつわる青写真を描いてみたいと思います。

 

多様性を考えるときの基本的な対立は、「私たちは一人一人違う個性を持った人間である」という言説と「私たちは育ちや環境、生まれ持っての性質によって多くを共有している」という言説ではないでしょうか。

 

この二地点の間で私たちは絶えず揺れているのだと思います。

 

この二つの言説はどちらも正しく、僕らは一人一人違った個性を持っていると同時に多くを共有しているのですが、問題はその度合いやわかりやすさにあります。

 

同質性が非常に高くまた、それがお互いはっきりと認識しやすい状況では、「多くを共有していない」「個性を主張する」ことが良くも悪くも目立ちやすいです。これは主に同質性がもたらす安心感や対人コストの低さ、集団に所属しているという感覚が原因なんですかね。似たもの同士で集まるっていうのは人間関係の基本性質?。

 

逆に全員に違った個性を見出しやすい環境であれば、多くを共有していることを主張することがタブーとなりやすいです。これは、同質性という特徴の裏に隠れている異質なものを排除するという特徴を知ってのことだと思います。簡単に言ってしまうと、五人の人間がいたとして、うち4人が男性で一人が女性。低くない確率で一人の女性が疎外感を感じるかもしれません。この男性/女性の区別は国籍、人種、アクセント、社会階級、趣味、キャリア、、、なんだって置き替えることができます。こうして様々な面で疎外感を感じる人が増えてくるのが多様性の高い社会であり、そういった問題を解決しようとするが故に同質性がタブーとみられやすくなるのでしょうか。

 

また、同質性の問題は疎外「感」にとどまりません。ここでのキーワードは「パワーバランス」と「特権」としておきましょう。

 

ある共通した性質によって集団を分類したときに、その集団間に必ずといっていいほど不公平なパワーバランスが生まれてしまいます。ある集団が他の集団より多くの発言力や特権を獲得し、結果その場その場の出来事だけでなく人生レベルで不公平が生じてしまう。

 

一番わかりやすい例は数の力でしょうか。他にもある集団が伝統的に特権を得ていたり、社会的に抑圧されていたりもします。

 

そこでそういった不平等を是正しようと、それに関する不利益をこうむってきた人達が中心となって今まで様々な人たちが声をあげ、あらゆるカテゴリーの概念的、あるいはカテゴリーそのものの解体が進められてきました。

 

僕は身近な友人で何人か、国や文化という個人を集団に所属させるような枠組みを一切合切きれいさっぱり取っ払ってしまいたいというようなことを主張している人たちを知っています。

 

 

ところで 、、、

 

こういった解体は一体どこまで行けば終わりを迎えるのでしょうか。

 

またどのレベルまで解体すればよいのでしょうか。

 

僕の目下の疑問として、制度的なレベルでの解体と個人的な人間関係のレベルでの解体はどこまで共通の下地を共有すればよいのでしょうか。同じスピード、同じ度合いで進めるべきという認識を持ってしまって良いのでしょうか。

 

今、こうした解体作業は必ずしもハッピーハッピーで進んでいるようには思えません。行き過ぎたポリティカルコレクトネスは人々に窮屈さをもたらして、その窮屈さを乗り越えそれでも「完全な平等」へと向かおうとする人たちから開き直ってしまう人まで立場の分断がよりはっきりと現れるようになっているのかも知れません。

 

 僕はこの場で大きなレベルで話をしようとしているわけではなく、あくまで個人としてどう考えふるまってよいものか、ということを考えたいと思っています。

 

少なくとも個人のレベルで、自分の半径5メートルの人たちが、そして自分自身がこうした振り子の間で揺れ動き戸惑っているのを感じています。

 

この前、ABC三人の友人と歩いていて、Aがなにかをやらかしてジーザス!!と叫んだときに、Bがそんなことでその名を呼ぶべきじゃないと咎めました。「Cはクリスチャンだから」と。

 

確かに一部の敬謙な信者はその言葉を口にするのを避けることはAも知っていました。それにAは他に代用できる言葉をたくさん持っていたでしょう。でもだからといってここでAは多様性への意識の低い失礼な奴だと咎めることで何になるのでしょうか。

 

結局Cが自分は全く気にならないと言ったことでこの下りは終わりました。

 

みなさんにこの話がどのように聞こえたのかはわかりませんが、こういう事が多様性の高まりつつある社会では日常的に起きているのだと思います。

 

 

これって、僕の個人的な感覚からすると

 

正直にいって、どこまで追求したって終わりがないと思うんですよね。

 

どこまでが不快でどこまでが気にならないとか、どこまでがジョークでどこまでが笑えないとか、そういうのって個人によって大きく変わって来くるし、

 

もうなんなら日々地雷原を歩いているようなものじゃないですか。

 

もちろん終わることのない追求をしていくことは大切だと思うし、例えば総理大臣とか大統領とか国営放送とかそういう機関であればある程度の窮屈さを受け入れる必要はあると思います。

 

それに教育を通して今多様化する社会で様々な問題が起こっているということ、なんてことのない小さな言葉と思っていてもそれで不快な思いをしたり傷付いたりしてしまう人たちがいること、それらをしっかりと理解させることは大切だと思います。

 

ただ、僕が少し違う思ってしまうのはそれらの「間違い」を冒してしまった人達を鬼の首でもとったかのように「無知」「愚か」「差別主義者」などといって痛烈に批判、いや口撃するような態度。

 

 

やや過激に聞こえるかもですが、差別的な感情、偏見、ステレオタイプ、無意識に吐かれる毒、こうしたことはもはや人間の本質に近いものがあり、もしかしたら一生それから逃げることが出来ないのかもしれません。

 

それなのにそれらが全く存在しないような社会を想定して前に進もうとすれば、開き直って逆方向に進もうとする人と、自分を押し殺して不健全かつ非本質的な優等生がたくさん生まれてしまう恐れがあります。

 

 完璧を前提とするような社会の在り方はどうしても違和感しか感じないのです。

 

 

そこで一つ思いついたアイディア。

 

タイトルに書いたように、絶対的な正直さをもつことが一番大切だと思うのです(少なくとも個人のレベルでは)。

 

言葉というのは人間を形成する非常に大きな要素の一つでもあり、また人間の一部しか表さない非常に表面的なものでもあります。

 

何を言ったのかではなく、何を思ってその言葉を発したのか。その言葉が表現し切れなかったものはなんなのか。

 

そういったことまで考えを及ばせること。

 

 

そしてその上で、嫌だと感じたことは嫌だと感じたということ。不快に感じた時に不快に感じたと言うこと。

 

またそれだけでなくて、相手を不快にさしてしまうかもしれないこと、嫌な気持ちにさしてしまうかもしれないこと、それすらもお互いにオープンにシェアしなけれないけない必要性が出ていてるのかもしれません。

 

社会制度や規範など大きなレベルではどうしても対処しきれないことは個人のレベルでその場その場で対処していくしかない。

 

そう思います。

 

なんだか書いてみると当たり前のようにも聞こえてくるのですが、案ずるよりも生むがやすし的なことだと思います。 

 

それでは。

 

moi moi!