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北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

偏差値お化け

こんにちは!moi!

 

前回フィンランドの教育の中で偏差値による居心地の悪さが生まれにくい的な話をしましたが、今回は僕自身が今までの数年間とフィンランド的価値観を照らし合わせて感じたことを書いてみたいと思います。

 

あまり細かくは書きませんが、僕と偏差値との蜜月は小学校高学年から始まって高校を卒業するまでの約8年間かなり真剣なお付き合いをさせていただきました。

 

僕が人生を語る時、僕は十代の僕を順位で表すことができます。もっとも簡略化して言えば小学校高学年時代は21人中20位で中高は240人中120位。これが僕の順位です。

 

今となってはヘルシンキvuosaari行のメトロが一分遅刻したくらいどうでもいいことなんですが、当時の僕にとってはその数字は紛れもなく自己認識の大きな一部でした。

 

周りにはそんな数字に負けないくらい強かで賢い友人が沢山いましたが、精神的に脆弱な僕はこのままでは何かが違ってしまうかもしれないと思って、コンクリートジャングルTOKYOから18歳の精一杯の意地で逃げ出したわけです。

 

とはいえ逃げ出した先もさほど状況は変わらず、なんだか現役組浪人組とかカテゴライズされたり、現役合格で新歓期楽しそうというだけで散々文句いわれたり(あやつのことは今でも嫌いです笑)、大学名聞いただけで態度が変わったり、生活の中のほんの小さな一部にすぎませんでしたが、それでも確かに、細かな違和感は絶えませんでした。

 

それで今、KYOTOからも逃げ出して遠く西のフィンランドに流れ着いてきたわけです。(別にそれが目的ではないのだけれども!)

 

 

フィンランドでは僕がどの高校に通ってどの塾に通って、どんな方法でどの大学に入ったかなんて、僕には目が二つあって鼻と口が一つずつあるくらいのインパクトしかありません。

 

もっと言えば、どんなインターンをしたとかどんなボランティアをしたとか、どんなキャリアパスを通ったとか通るとか、そういうのも日本でそれを言うほどのインパクトは全くありません。

 

その活動そのものに興味があったとしても、その裏にある、もしくはその表に覆いかぶさっている「先入観」がないからです。

 

だから結局周りの人がやってるからとか、やったらすごいと思われているから、とかそういう理由でやったすべてのことがむなしく感じられるのです。

 

ここでは自分がやりたくて、自分なりの信念があって、自分なりの自己表現として行ったこと、やってみたいことだけがストーリーとして成立します。

 

 

これだけ解放された環境にいて初めて、僕は自分がいかに周囲の視線や社会のプレッシャーにがんじがらめにされていたのかに気づきました。

 

確かにずっとずっと前から違和感として感じていて、常に頭のどこかで解放されたいと思って、心のどこかで息苦しいと思っていたものの、どうしていいのかわからず、結局最後は現実という二文字を楯にして歩き続けることしかできませんでした。

 

確かにその恩恵を沢山受けているはずだし、変に反抗せずおとなしく歩いてきたことは非常に合理的な判断だったと思っています。但しわからないのは、その恩恵を無批判にそのまま受け入れてしまっていいのかということ。このまま納得できない自分を無視して歩き続けてしまっていいのかということ。

 

大学に入ってから、僕は挫折したことがないから、本当にしんどい思いをしたことがないから本当のことが見えていないと色んな人に何度も言われました。びっくりするくらい、何度も。

 

僕自身その言葉に納得させられてしまっているようなところがあって、確かに僕が言っていることがただの浅い考え甘い考え、ロマンティシズムに過ぎないのかもしれない。結局学歴やお金が人を幸せにするのが現実なのかもしれない。僕はただそこから目を背けたいだけなのかもしれないと何度も思いました。

 

今でもそう思っています。僕はまだまだあまあまちゃんだから現実というものがどんなものなのか全然わからない。

 

 

でも留学してみて、

 

野菜しか食べない人にあって

 

その国トップレベルの大学にいて官僚を目指している人にあって

 

仕事をしてはやめて旅をして、、と繰り返している人にあって

 

自分の仕事を世界で一番だとなんのためらいもなく言ってのける人にあって

 

 

とにかくいろんな人に会って、それぞれがみんなまっすぐな目で時に顔を真っ赤にしながら自分が何を信じて生きているのかを語ってくれて

 

僕が感じていた違和感は間違っていなかったのだと、再び思い始めています。

 

確かに偏差値的な価値観で幸せになれる人もいるけれど、全員じゃない。

 

大学に入学した後でも、自分のことを浪人だなんだとレッテル貼りして、○○大学なのにこんなことを言うのも恥ずかしいですがと恥ずかしげもなく言ってのけて、常に曖昧で大きな評価軸の中で自分を位置づけることをやめられない人達を、というよりもう一人の僕をぼんやり眺めていると、僕らにはもっと新しい形の幸せが必要だという気になってくる。

 

現実云々という話をするのであれば、僕らの考えではなくてそんな現実の方が変わった方がいい。

 

そんな気になってくる。

 

なんだか感情的になってしまいました。

 

まだまだですね。

 

それでは。moi moi!

フィンランドの教育トラックと偏差値という概念。

こんにちは! moi!

 

もう4月になってしまいましたね。

 

新学期や新生活、桜、桜でなにかと騒がしい季節ですが、フィンランドでは学期途中の何の変哲もない時期なので、まったく季節感なく過ごしております。正直、花見に参加できないのが少し寂しいです。

 

とはいえ急にフィンランドに桜が咲くわけではないので、ペースは見出さず、いつも通りのテンションで今回は、、

 

「偏差値」

 

について書いてみたいと思います。

 

 

この偏差値という概念、恐らく多くの人にとっては馴染みがありすぎて困ってしまうくらい、ほとんど常識的な用語だと思うのですが、実はフィンランドに来て、この偏差値という概念の特殊さにはただただ驚かされるばかりです。

 

特に僕もよく馴染みのある「偏差値で人間を語ろうとする試み」は、ここフィンランドではまったく共感されません。きれいごととかじゃなくてほんとに。

 

PISAの調査結果を見てもらえればすぐにわかると思いますが、フィンランドの学校間の学力差は世界トップレベルで小さいです(日本はトップレベルで大きいです)。それって簡単にいうとどの学校にいっても同じってこと。基本的にはみんな近くにある学校に通うことがほとんどです。

 

ありがちな学歴あるある何かを披露しようものなら割と本気で数秒の沈黙が訪れたりします笑

 

今回はなぜフィンランドでは偏差値という概念が根付いていないのかについてちょろちょろっと考えつつ日本における偏差値のあり方も考え直すいい機会にしてみたいと思います。

 

まずそのために、基本的なフィンランドの教育トラックについて紹介しておこうと思います。

 

初めに言っておきたいのは、フィンランドの学校は(ほとんど)すべて公立学校であるということ。公立私立の定義が曖昧なので保険をかけてほとんどと付け足しましたが、基本的にすべてと思っていただいて大丈夫だと思います(日本は中学は93%、高校は74.2%、大学は23.3%が公立ー非私立ーです)。そして義務教育から大学まですべての教育機関が無料です。

 

日本の子供達と同じように中学までは義務教育として教育をうけ、その後はほとんどの子供達が高校に進学します。高校は普通科(general education)と職業科(vocational school)にわかれています。

 

各トラックへの進学率ですが、現在は義務教育修了生で進学者のうち5割ほどが普通科に、4割ほどが職業科に進んでいるようです(日本は約7割が普通科に進学)。またフィンランドには中学四年生という学年が公式に整備されており数%はそこへ持ち上がります。

 

先ほど中学は基本的に地元の、、と書きましたが高校になると学校によっての特色もいろいろと強くなってきて、学生の選択の幅も広がってますし、高校側も選抜があります。この選抜は基本的に中学校三年間の内申点に基づいて行われますが、学校によっては独自の試験を課したり、特色入試のようなことを行うことも。

 

高校は大学のように自分で必要単位取るために時間割を設定して、単位を取り終えることで卒業となります。三年ないし四年で卒業するのがスタンダード。

 

高校卒業後の進路としては「就職」「大学(university)」「専門学校(polytechnique)」の三択になりますが、職業学校の学生が大学を受けたり、普通科の学生が専門学校を受けることも可能です。(ちなみに日本語で専門学校といってしまうと少しニュアンスが違うかもしれません。イメージはほとんど大学と同じものがあると思います。フィンランドでは職業訓練コースに進むことが積極的に推奨されており、そのためにも卒業後の選択肢の広さが十分確保されています。)

 

大学進学に関して驚きなのが、高校卒業後大学進学テスト(matriculation testといって、これをパスすると高校での学びを十分修得したとみなされ各大学の入学試験受験資格を得られます。立ち位置としてはセンター試験に近いですね)を通った人の7割(68%in2015)がout of education、つまり高校と大学の間で宙ぶらりんになっているらしいのです。ただしもっと言うと、2015年でmatriculation test合格者のうち75%が高等教育にアプライしたということなので、まあ100人いたら25人は進学希望なし、32人が進学ということなので超単純に計算すると、43人が浪人ということになります。

 

例えば僕のいる教育学部の小学校の教員養成過程は、何と合格率脅威の7%!受かるためにボランティアやインターンなどで先に経験を積んで再度再度チャレンジする人も多いのだとか(教員養成過程の選抜は最終試験に面接がありその人の将来の教員としての素質がダイレクトに評価されるため)。

 

さてさて、こんな感じでフィンランド人がどのようなトラックをたどって教育を受けているか、何となくイメージはついたでしょうか。

 

 

それでは、面倒なエッセイと違うので細かなあれこれはほっておいてザクザクいきましょう。

 

フィンランドでは偏差値という考え方が共有されていないという話なんですけれど、サクッとまとめてしまうと、学歴トラックが多様がゆえに比較する意味がないということ、そして社会システム的に race to the topの中で多少遅れを取ってしまっても差ほど差し支えないということ、があげられると思います。

 

今まで書いてきたことを見てもらうと分かると思うんですけど、それぞれの選択が極端にマジョリティにもマイノリティにもなりにくいようになってると感じませんか?義務教育を終え、普通科に行く人いかない人。高校卒業後高等教育に進む人進まない人。浪人したことがある人ない人。多少の差はあれどそこまで偏った違いは見受けられません。

 

また、無料教育という仕組みがあらゆる選択肢の選びやすさに大きく貢献しています。中学4年生をはじめとして、大学に入ってから専門を一度二度変更することも珍しくなく、学業を修め終了するまでに比較的リラックスして自分が何に興味が持てるのかを追及することができます。

 

このように思春期青年期の各段階で十分な選択肢と余白を用意しておくことによって、周囲の環境に無暗無批判に流されることなく、選択するうえで自分の興味関心意欲により声を傾けやすい環境が生まれているのかもしれません。

 

偏差値というのは基本的には一つの軸でしか能力を図れないので、選択肢の幅が広がれば広がるほど、そして各選択肢の価値が均等になればなるほどその存在意義は薄れていきます。

 

皆さんの中では偏差値という概念はどのような存在として受け取られていますか?偏差値という言葉に関するエトセトラを聞いたときに、理屈ではなくて心でものを考えたときにどのような感情が湧き上がってきますか?「偏差値36のあいつ」と「偏差値73のあいつ」にどのようなイメージ持ちますか?

 

ふと思いついて手元にあるデータだけでパーッとここまで書いてきたので、少し一面的な見方になってしまっているかもしれませんが、何かしらのアイディアの種の種にでもなってくれればうれしいです。

 

永くなってしまったので別記事で僕自身が留学して感じた偏差値と自分との関係性や思いについて書いてみたいと思います。

 

*追記。書きました↓

healsp.hatenablog.com

 

 

ではでは。moi moi!

留学は効率の悪いサービスに過ぎないのか。

こんにちは! moi!

 

3月と言えどもまだまだ冬を感じるヘルシンキですが

 

ピリオド3を終えたあたりで年始から謎に始まった病み期を無事抜けて通常運転を開始しております。

 

さてさてそんなこんなな三月ももうおわりそうですが、

 

先日インターネットの大海原で世界一無駄な時間を過ごしていましたところ、「留学なんて高くて効率が悪いサービスに過ぎない。留学する前にもっとやることがあるだろう。」

 

という主張とばったりでくわしまして、ついつい考え込んでしまいました。

 

人間というのは基本的に自分のした経験をついつい特別視してしまう生き物だと思うので(だからこうしてブログを書いているという側面もあるわけで)、基本的には僕の耳には留学してこんなに良いことがあったよ!みたいな意見しか入ってこないのですが、だからといって留学していない人全員が損してるとか、そんなことは言えないわけで

 

そうすると留学する意味ってなんなんだろうなーというちょっとおっきな疑問に繋がってしまうようなしないような。

 

 

 

 

でそんなこんなでいろいろと考えていたんですが、これ結論からいうとやっぱり留学って効率の面からいってもそのほか色んな面から考えても比較的質の高い経験だと思うのです。

 

留学をあまり意味のない、もしくはもっと他にやることがあるという意見は実は出発前にも何回かでくわしたことがあって、僕自身も留学にアプライする直前は未解決のまま頭の片隅に留めておいた疑問でもあります。

 

 

例えば、昨年公開された映画で『何者』という映画がありました。朝井リョウが原作を書いていて、彼はこの作品で直木賞取ってますね。

 

もちろん僕は映画は見れてないので原作を読んだだけなんですけどそれはいいとして、物語の中に「アメリカに留学した経験まである『のに』就活でまったく内定が取れない」という設定の女の子が登場します。(彼女は留学のほかにもボランティアとか色々やってたりして、そこまで留学が強調されているわけではないんですけど。)映画では二階堂ふみが演じてましたね!

 

で、こうした留学経験者を陥れるような言説ってそんなに珍しいことではなくって、「発音『だけ』がいい」とか「スラングしかしらないで中身がない」とか、「すぐアメリカでは、、とかいうけど受け売りで日本のことは何も知らない」とかそういう風潮は意地悪くアンテナ立ててれば結構簡単に出会えたりしてしまうはずです。

 

また、今はインターネットを使って日本国内だけでも十分多種多様な経験ができるはずですし、その中には国際交流とか英会話とかそういった海外留学エージェントが一番売りにしていそうな要素も十分含まれてしまうわけです。

 

確かに留学なんてするまでもなくネットを駆使すれば海外の有名大学の講義が聞け、ネイティブから無料で英語を添削してもらって、今はやりの出会い系アプリとか使えば同じ大学の留学生という枠を超えて様々なバックグラウンドをもった人と「国際交流」が出来ます。

 

確かにどれも現地にいって云々するよりも少し質は劣りますが金銭を含め留学に係るコストを考えると国内でできる経験で十分なのではないか、留学したいという気持ちはあるが実際に行動に移すほどの魅力はないのではないかと思うのにも頷けます。

 

実際にもっと安くて手間がかからず同等の経験が出来る選択肢はいくらでもあるのかもしれません。

 

将来のキャリア選択によっては文字通り留学するよりも他にやるべきことがたくさんあるのかもしれません。

 

かたや留学生を見てみろ。留学という言葉の大きさにかまけてたいして授業にもでず遊んでばかりじゃないか。日本人と固まって小旅行を重ねてるだけじゃないか。英語が喋れるといったってawesomeとcoolがかっこよく発音できるようになっただけじゃないか、という声が聞こえないこともないです。

 

まあ、身をもってその通りかもなーと思わないこともないです。

 

恥ずかしながら告白すると、僕は夢に向かって全速力!イチロー本田型人間、ではないので、部屋でYOUTUBEをだらだら見ながらわざわざ留学してるのに今の俺はなにしてるんだろーな、、、なんて瞬間は何度もありました。特にテスト前。

 

日本の大学の授業を最前列で受けてる友人とか、巨大サークルのトップで奮闘している友人が思い浮かんでは何とも言えない無意味な焦燥感に何度も襲われました。

 

 

・・・ただですよ、

 

ただ、

 

問題は「果たして日本にいたところで自分は今と同等もしくはそれ以上の経験をしているだろうか」というところにあると思います。

 

いやしてるっしょ。

 

と思う人は、、以下省略。

 

僕自身は大学入学してから過ごした二年半とここで過ごした半年ちょいを振り返ってみて、まあそれはないかな、と思ってしまいます。

 

僕の超個人的なカテゴライズに寄れば、基本的に大学生は「ほっといても人生切り開いていく系」「惜しい系」「もう無理系」に分けられるのではないかと思っています。きっとどこかでそういう記事を読んだのでしょう。

 

もしそうだとしたらきっとマジョリティは「惜しい系」の人たちでしょう。

 

惜しい系の人たちのどこが惜しいかっていうと、彼らはとりあえずぼんやりとこういうことをしてみたいなーとか、自分を変えてみたいなーとか、そういう人生の原動力の種を持っていて、それに基づいて色んなことをしてみたりしなかったりしながらそれでもなんとなくたのしいからいいかとか面倒だからいいかといい塩梅で折り合いをつけて日々を過ごしているわけです。

 

正直この世の中の一体誰がそんなことを考えているのか皆目検討もつきませんが、実体験に基づいてとりあえずそう書いてみました。

 

確かに頭で考える分には留学に変わる選択肢はいくらでも思いつくのですが、問題なのはそれらの選択肢は同時に多くの言い訳と逃げ道を残してしまうことも事実です。

 

なにせ僕らは惜しい大学生なので、最終的にどういう結果に落ち着いてしまうかは想像に難くありません。

 

もちろんちょっと前までただのぐうたらだった人が留学したとたん人が変わったように猛烈勉強マシーンになるなんて都合のいいことはそうそう起こりないかもしれません。自分を変えるなんてそうそう簡単なことではありません。

 

しかし考えてみたいのは

 

仮に留学しなかったとして大学生活半分を終えなんとなく流れもつかんできた僕が新しく何を始めようというのか、という問題。

 

はたして二階堂ふみはアメリカに留学しなかったとして日本で何をしていただろうか問題。

 

結局人は変わらないなら、留学先で家にこもってYouTube見てる人はどうせ日本にいても家にこもってYouTubeみてるのが関の山ではないのでしょうか。

 

留学しても勉強せずに遊びほうけてる人は日本にいても勉強せずに遊びほうけているだけではないでしょうか。

 

そりゃあフランス語をもう一年やってみようとか、興味のある一般教養をとってみようとか、TOEICで満点取ってみようとか、大小野望は色々ありましたが、まあ何かしてるとしても基本的には過去数年間過ごしてきた大学生活を引き継いだ日々を送っていたと思います。

 

留学しても大して意味がないという人たちの意見は往々にしてあたかも日本にいれば彼らはもっと意味深い経験ができるような表現をしますが、可能性として出来たとして、本当にそれ、しますか?

 

おそらくしないと思うんですよね。

 

 

留学することの良さの一つには、流れの速さと不可抗力があると思います。

 

出来事としても精神的にも、なんていうかもうどうしようもないことに留学中はかなり出くわしやすと思っていて、とりあえず来てしまえば最悪超受け身でも日本でそのまま超受け身であるよりははるかに得るものが大きいと思うのです。

 

そういう意味で、すごく効率がいい。

 

いや、もちろん国内にも様々なプログラムや経験の場が沢山あるとは思います。

 

でも留学ほど多方面から包括的に万遍なく刺激を受けることができる場ってそんなにないと思います。なにせ留学は生活そのものが経験の場となってしまうのだから。

 

自分の人生自分で切り開くぜ!なんて思っている人は別にいいんですけど、なんかぼんやりとした不安とかもやもやとか不満とかそういうの抱えてる人ほどとりあえずトビタッテみてはどうかと。

 

もちろん様々な制約で「行きたくてもいけない」人もたくさんいると思います。でもそうじゃない人もそれなりにいるのかもしれない。

 

もうこう言ってしまうと説得力も何もないのですが、留学に一ミリでも興味があって日本で特に没頭していることがあるわけでもなく、正直行かない理由はいけない理由ではないかもしれないと頭の片隅で思っている、、、

 

これだけの条件がそろえばもう行くしかない。とりあえずアプライだけでもしてみるしかない。

 

僕はそう思っています。

 

なんともひねくれた視点だなあとも思いますが真面目に、何かかっこたる目標を持ってない人、持ってみたいけど持ててない人、そんな人ほどぱっと留学してみて見えてくるものが多いのではないかと思います。

 

色々と厚かましいことを申し上げました。..

 

 

それでは。moi moi!

観察する力。

こんにちは!moi!

 

前回のブログから大分時間がたってしまいましたが、終わりの見えない怒涛のダークネスを無事乗り越え、何とか生き延びています。

 

正直なことを言うと一月はゴリっゴリに病んでました

 

クリスマス休暇の旅行疲れと新学期のストレス、寒さ暗さ暗さ寒さ、就活を始める友人、なんだかんだ誤魔化しきれなくなってきた自分の中の甘え、留学の姿勢に対する不安感、とにかくピンからキリまで色んなものが一気に降りかかってきてどえらいことになっておりましたとさ。

 

全部ビタミンDのせいにすることで何とか自分を保っていました。

 

その不安やらなんやらも時間があれば書いてみたいなと思います。

 

一つ思ったこととしては

 

たかが一年間の、しかも大体のことはあらかじめ決まっている何の変哲もない大学の交換留学なのに(一方では一から全部留学を作り上げている人もいるのに!)これだけ病んで色々考え詰めることができるなんて、なんと留学とはコスパのいい経験なんだろうと、感心感心です。

 

君の名はで感動して思わずつぶやいちゃうだけの感受性があるのであれば、とりあえず来てみて、流れに身を任せて日々を過ごすだけで、、、。あゝなんと素晴らしきコスパ。トビタテトビタテ。。(もちろん主体的に動けば動くほど得るもの感じることは大きくなっていくわけで、だらだら過ごせばいいってわけではないのだろうけれども!)

 

 

と、そんな不安定な精神状態の中でも時間は着実に流れていくわけで、その中でたとえ頑張れなくても最低限のことはきちんとこなしていくことで振り返ってみたら少なからず前に進んでいることに気づいてしまうわけで

 

先月ようやくトビタテに提出した計画の半分を完遂、残りも恐らく書いたとおりに行けるだろうという目処がつきました。一安心です。

 

 

 

計画の中には複数の義務教育の現場を訪問、見学することを盛り込んでいて

 

正直ほんとに学校なんてそんなにホイホイ行けるものなのか分からないままとりあえず来てしまった訳なのですが、良いご縁に恵まれて着実に色んな学校を見させてもらっています。(感謝。)

 

 

そこで今日はいくつもの学校を見学させていく中で感じた

 

「観察する力」

 

について書いてみよう思います。

 

今回はその観察する力とやらを自分の外にあるものを観察する力と、自分の内側を観察する力の二つに分けて考えてみたいと思います。

 

まずは外側を観察する力について。

 

これは普通に生徒が何人いるとか、机の形がどんなだとか、そういう奴ですね。

 

留学が始まる前、所属ゼミの授業の一環で近くの小学校を見学させていただく機会がありました。その時に先生から貰った指示は「何でもいいから目に映ったもの、気づいたこと、思ったことをそのまま書き留めなさい」といったようなものでした。

 

実際に学校に行ってみて、正直すごく困惑したことを覚えています。

 

正直何を書いていいのかわからなかった。

 

先生をはじめとして院生さんなどが物凄い勢いでペンを走らせているのを見て、(僕も何か一生懸命書いている雰囲気を醸し出しながら)この人達はいったい何をそんなに書いているのだろうかと不思議に思っていました。

 

その戸惑いはフィンランドの学校を初めて訪れたときもほとんど同じでした。

 

もちろん僕の知っている日本の学校とは全然違うところも多く、あれが違うこれが違うと騒いだり、事前に授業で習っていたことを思い出して答え合わせをしたりしてなんだかんだ充実した時間は過ごせたのは事実なのですが

 

今思うと少し「浅かった」かな、と思っています。

 

healsp.hatenablog.com

↑初めて学校訪問をしたときの感想をまとめた記事

 

もちろん、異国の学校を一校一回訪問したところで何がわかるわけでもなく、そうした表立った違いにばかり目が行ってしまうことは至極納得のいくことです。。

 

でもその後、授業と見学を何回か繰り返していく中でだんだんと自分の「観察」が変化していくことを感じました。

 

変わったことは二つ。視点の多さと深さ。

 

例えば教員経験のある学生はしきりに黒板やパワーポイントの使い方(デザイン)のことを気にしていました。これは実際の実践経験のない僕には絶対手に入らなかった視点だと思います。

 

他には放課後の掃除とか。僕は見学の度に子供達が学校空間をどのように捕らえていて使用しているかについてメモを取るようにしています。これはゼミの先生が教育と空間論を研究している影響だと思います。もしあの授業を取らなかったら、例えば学校に先生の目が行き届かない「子供の楽園」がどのように設置されていてどのように機能しているかなど、きっと考えもしなかったと思います。

 

またただ気づくだけじゃなくて、過去の記憶や、学んだ知識を引っ張り出してきてつなげて見たり強調して見たり比較して見たりと回数を重ねるごとに頭の中が今流行りのアクティブラーニング状態になって行くのを感じました。

 

定期的に見学を重ねて、並行して授業を受け、文献を読むことで初めて見学した時には絶対気づくことの無かったようなメモが増えていき、全体の量としても一回目とは比べものにならないくらいです。

 

そこにぼけっと突っ立ている人と、知識と経験によるバックグランドに支えられてそこにいる人では同じ景色を見ているはずなのに情報量には圧倒的な差が出て来てしまうのだなあ、と感心しきりです。

 

 

しかしそうやって目に映るもの耳で聞いたものをただただ書き留めていればそれで良いとは思いません。例えば大学の調査ですでに研究設計がされている中での見学などであれば話は別ですが、僕みたいに地図を広げるための見学なれば客観的な事実のほかにもう一つ耳を傾ける必要のある要素に気づきました。

 

それは自分の心の中の声。

 

これは教育を学ぶ人あるあるだと思いますが、日本ではおそらく全員がなんらかの形で教育に参加していて、教育を学ぶということは過去に自分が受けてきた教育を見直さざるを得ない行為でもあると思います。

 

ここから先はすごく感覚的なことで確証は持てないのですが、、

 

例えば給食とかを見てるとやっぱり懐かしい分けですよ。自動的に給食に纏わるエトセトラがフラッシュバックしてきたりなんかして。

 

他にも音楽の授業をみていて、いいなー、こんな授業うけてみたかったなあー、とか。

 

そういう風に学校現場を見ていく中で全く学問的ではないし、フィンランド教育とは全く関係ないけれども、とりあえず事実として浮かび上がってきた感情とか言葉を無視しないで一つ一つ丁寧に拾い上げていく。もし余裕があればそれを言葉にしていく。

 

そういった経験の積み重ねや残されたメモは今後どういった形であれ教育に関わって行く中で絶対生きて来るような気がしているのです。

 

納得のいく説明はできないけれど、とにかくそう感じます。(強いて言うならば自分の中にあるバイアスをそうすることで取り除けて、よりまっすぐな観察ができるようになる、というのはあると思います。)

 

そしてこの自分の声を拾い上げるという作業、さらにいえばそれを文章にして表現するという行為は想像以上にコツと技術がいるようです。

 

 

一つの場面から以下に多くの情報を手にできるか

 

これはこれから日本に帰ってからも心の中に留めておきたい課題かもしれません。

 

それでは。moi moi!

原体験何ぞないならないでない方がいいのかもしれないしそうとも言えないのかもしれない。

こんにちは!moi !

 

今日はテストにレポートに(ほとんど)すべてが終わって、久しぶりののんびりとした朝でした。

 

kindleyoutubeを延々往復している中でふと目を外に向けると、、

 

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縦に伸びる虹が!

 

ズームして光量落としてみると

 

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!!絶対誰か降臨してるよね。

 

しかも今日は宙を舞う微細な雪が太陽に照らされていて、非常に神秘的な朝でした。

 

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11月は雨が降って大雪が降ってそのほかは曇ってて、氷点下になって、、

 

ああいよいよ冬がくるなーとやきもきしていたのですが、12月になってみるとなんだかお天道様も気分を持ち直したようで、初旬は晴れの日も多く、気温も氷点下あたりをうろちょろする程度で、京都の二月とそんなに変わらないくらいです

 

過去すでに一度ヘルシンキで交換留学しているルームメイトは、数年前のこの時期は―20まで下がっていたというので、どうやらラッキーな時にこれたようです。。(逆に-2,3度では何とも思わなくなっているのも怖いですが)

 

それに12月はクリスマスシーズンで町中ライトアップされているので、どんよりとした11月よりも精神衛生上断然よきだと思います。

 

さて、授業に追われて下書きばかりがたまっていく一方ですが

 

こんな徒然草的な文章であっても、常に人の目を意識しながらものを考えるというのはとてもよき良きな経験になっているので

 

余裕がある限り積極的に色々書いてみたいと思います。

 

 

 

本日のトピックはずばり

 

「原体験」

 

です。

 

 

大学生ならばおそらく一度は聞いたことがあるような言葉だと思いますが、簡単にまとめると「モチベーションの素」みたいな感じでしょうかね。

 

あの体験があったからこそ今の自分がある、、、

あの時のことが忘れられなくて今こうして頑張っている、、、

 

みたいな感動秘話的な感じで使われることが多いです。(そういう気がしています。)

 

具体的な例を出すと生々しくて少し意地汚い気もしますが、いじめられた経験がある人が大学に入ってボランティアでいじめ問題に取り組むなんてことは聞かない話ではないと思います。ポジティブなやつで言いますと、僕の例でいうと、高校時代ちょびっと経験した海外ホームステイがめちゃくちゃ意義深いと思えたので、大学に入ってから留学促進的なボランティアをちょびっとしてました。

 

こういうの全部、原体験ですよね。

 

で、まあ

 

前例二つからもわかるように原体験にはポジとネガの二種類あって

 

楽しすぎて人生に大きな影響を与えたver. と辛すぎて今でも忘れられないver.にわけられると思うわけです。今回は両方意識しつつ主に後者にフォーカスをあてて書いてみようと思っています。

 

大学生って、一部でなんだか人とは違う私の体験。みたいなのを披露する機会がたまに出現するわけで、僕も要所要所で繰り広げてきたわけなのですが、そういう話に対するレスポンスとして必ず一定数あるのが

 

「いやー僕はそんな人に話せるような経験持ってないし」

「僕の人生ほんっとに普通だから!フツウ!」

 

みたいな回答。ちょっと自己否定と卑屈が入ってるような。

 

特にこういう言葉は語られた体験のインパクトが大きければ大きいほど、もしくは深刻であればあるほど、多く耳にします。

 

 

ここで注目したいのが、こうした語り手と聞き手のアンバランスなやりとりが繰り返されることによって、「原体験」が「権威」になってしまうという現象です。

 

「え。君の原体験は?・・・え!?ないの??・・・・ふーん。」

「・・・」

 

みたいな。

 

苦労したことがないコンプレックスというか。

 

確かに、何か大きな経験をしたときには、割かしそこから学べることは多いわけです。楽な道より大変な道を選んだ方がそこから学べることは大きい可能性が高いわけです。

 

とりあえず今の風潮として、何をするにせよ学ばなければいけない、学ぶべきみたいなことになってますから、そういう意味で原体験を語ることは自分の経験値の高さ、視座の高さみたいなものを相手に暗に伝えるような働きを持ってしまうのは仕方のないことだと思います。

 

でも、それは人が勝手に価値判断をしただけの代物であって、

 

実際、原体験ってそんなに見上げたような存在なのでしょうか。

 

 

僕はいつも、「事実と価値をできるだけ分別する」ということを常々意識していて、そういう意味で、体験はただの体験に過ぎず、「縦に伸びる虹を見た」ことと「過去にすごくつらい思いをした」ことは実質何ら違いのないことなのではないかと感じています。

 

でもそれが自分の中で反芻されたり、他者に語られることになったり、未来の選択に意識的に関係させられたりしていくとどんどん価値が複雑に絡んできて、もとあった原型が見えにくくなっていくのかもしれません。

 

こう考えると、自分の原体験を内省や表現する際に、それらが自分にとってどのような価値を持っているのか、そして自分以外の他人にそれがどのような価値をもっているように見えるのかを考えることはとても大切だと思います。

 

もっとも分かりやすく型にはめ込んだ例を出してしまえば、結局原体験を語る人は時としてそれを単なる自己正当化や相手を圧倒する道具(権威)として使ってしまう(つまり原体験にそういった道具としての価値を見出してしまう)恐れがあるからです。

 

そういった歪んだ使用は、(なんと表現していいかわかりませんが)なんか「経験・体験の作られた絶対性」?みたいなものに覆い隠されて、全員がなんとなくその歪みを感じつつもその正体がよくわからないままことが進んでしまいます。

 

作られた絶対性といったのは、原体験に高い価値を見出しすぎてしまっている、もしくは何らかの理由でその価値に固執しすぎてしまっているが故に、その価値は自分が得たその体験でしか得られない!といった考えにいたってしまう恐れがあるからです。こうなると他者である聞き手はなにも言えなくなってしまう。

 

要は原体験を強烈に意識するということは、原体験に囚われて抜け出せていないということでもあり、体験とはどこまでも主観的なものなので、そこには必ずある程度の盲目的な偏りがあるということは避けられないのだと思います。

 

 

ここで一つ挟んでおきたいのは、そういういびつな権威の利用が悪いとは思っていません。そういう時もあります。でも、少なくともその場にいる誰もがその場で何が起こっているかを冷静に判断できない場合にそのいびつさが問題を引き起こしてしまうと思うのです。

 

自分の体験に対して自分がどういう価値を見出しているのか、またその体験が今自分にどういう力を持っているのかというのをどっか冷静に考えられないと、色々間違いがおこるかもなーなんて。

 

 

ここまで考えて、

 

あー原体験なんてないならないでないほうがいいなー 

 

と思ったわけです。

 

色々調子狂うし

 

教育界隈なんて原体験病の巣窟みたいなとこなんだろうし。

 

 

現在のいじめ問題について語る時に語るべきは現在のいじめ問題についてであって、もしくは今タイムリーにいじめられている子たちの声であって、自身のいじめられていた経験ではありません。自分の経験を、自分の主張が相手に納得されるために利用することは僕はなるべく避けるべきだと思っています。なにかが歪んでしまうから。

 

 

ただ、

 

でもでもそうはいってもですよ

 

結局事実と価値を、自分の経験と他人の経験を、心を強く持ってしっかり分けて考えることが出来れば、原体験(特にネガティブな)が強力なモチベーションになることも事実だとも思うのです。

 

それに「自分にしかわからない思い」みたいなものは、気をつけて扱うべきだけれど、無視するにはもったいなさ過ぎるほど多くのものを含んでいると思うし、、 

 

諸刃の剣的な。

 

それでこのタイトル。

 

ちゃんちゃん。

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なんでこんなことを考えてしまってのかというと

 

実はぼくもわりと原体験ボーイだったのですが

 

フィンランドにきたことで、物理的な距離的にも気持ち的に今までの自分、今の自分から随分な距離を置くことが出来て

 

まあ、見えなかったことが見えてくる的な・・?

僕成長しちゃってます的な・・?

 

感じになってるわけです。

 

特にフィンランドという土地はものすごい僕にあってるみたいでまあ余裕のないときがほとんどですがたまにドカッとジャイアントYOYUみたいなのが降ってわいてくるのです。

 

そうすると、自分がぺらぺらぺらぺら語ってたことって、表の価値と内実の価値が全然違ってて、幾分か空虚だったなって思うこともあって

 

こういうことを思ったわけです。

 

(本当は人種差別の授業で、マイノリティと分類されている人達が積極的に発言する一方で白人男性ストレートクリスチャンみたいなポジションの人達が、「僕は経験がないので本当のところはよくわからないのですが、、、」というようなことを言葉頭に居心地が悪そうにつけているのを見たのがきっかけなのですが、これまたいろんな意味でややこしくなりそうだしネットでは色々伝わりそうもないのでなかったことにしました。)

 

やっぱり何かに行き詰っている時は環境を変えるってすごく大事だということを実感していて

 

特に同じような環境にずっといるとどっか凝り固まってしまうとこがあるし、それ自体は全然問題ないのだけれど、時々よくない固まり方をしてしまうから・・・要は、、

 

 

・・・・要約すると、、、

 

 

 

KEEP CALM and GO WITH THE FLOW!!

 

 

ということですね!

 

イギリスミーハーになりたくなければ、take a deep breath とかでもいいし

 

最後にwith sinserety とかつけばもっと最高ですね。

 

ではでは

 

moi moi!!

留学直前に肺気胸になった話④ 留学前の不安とか保険とかそういう話

こんにちは!moi!

 

なんだか思ったより回を重ねてしまいましたが、こんかいで書きたかったことをバシっと書いて終わりにしたいと思います。

 

今までの肺気胸列伝を要約すると、、

 

5月初旬 初めての発症。軽度⇒1週間自宅安静で自然治癒⇒

7月前半 再発。重度。即日入院でドレーンで応急処置。⇒手術⇒入院期間1週間で退院

 

という、まあ、流れでやってきたわけです。

 

それで、なんとも忘れてはいけないのが

 

8月後半 留学への take off !

 

ですね。

 

なんなら肺気胸になるだけならちょっとゆっくりできる時間ができてよかったーくらいで済んだのかもしれないのですが(多分すまなかった)、なにせ留学が控えてるのでそれが気がかりで気がかりで仕方がありませんでした。

 

まず一番最初に気になったのが

 

①保険のこと。

 

どうやら肺気胸は、保険の世界では「既往症」というくくりで扱われるようです。保険会社によって〇年以内にかかった疾病は既往症と見なすという定義が決まっていて、海外留学保険では基本的に既往症は保険適応外になります。(これも留学期間によって選択肢が大きく変わってきて、三か月以内とか半年以内とかでとにかく短ければ短いほど多様なニーズにあった保険が選べるみたいです。でも一年留学で保険を提供している会社ってそんなにないっぽくて。)

 

超やばいじゃん

 

ということで、医者に行かずに自宅安静で自力気合で直したら記録残らないから既往症扱いにならないんじゃね?というおバカ発想で医者にかかるのが少し遅れた僕です。おすすめしません。

 

で、結局入院が決まってから色々調べたんですけど、唯一一社だけ既往症にも保険されて一年間で申し込める海外留学保険がありました。

 

それが今使ってる

【公式】海外旅行保険・留学保険《t@bihoたびほ》

ってやつです。(一気に宣伝感が増しましたね)

 

この保険も基本的には既往症は対象外なのですが、ホームページのQ&A欄に

 

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Q:持病や既往症は補償の対象となりますか?

A:いいえ、持病や既往症については、補償の対象となりません。

ただし、米国医療制度等に対応するため、旅行目的が留学の旅行期間31日超で被保険者年齢32歳以下のご契約については、オプションで「疾病に関する応急治療・救援費用」のご選択が可能です。上記要件およびオプション選択をいただいた場合は補償の対象となる場合がございます。

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とあります。

 

実際に降りる金額は通常の金額と比べてぐっと下がるのですが、それでも海外で応急処置をするくらいなら十分カバーしてくれる(と思う)し、ないより全然ましです。

 

それから、実際に会社に問い合わせてみたところ過去に破れた方の肺のみが既往症扱いとなり、もう片方の肺が破れたら新規の扱いになることもあるとかなんとかで、とにかく事が起こって審査してみないとはっきりとしたことは言えないということでした。

 

気胸は体質に関わる病気で、片方が破れたらもう片方も破れる可能性があるという割と性根の悪い病気なのでこれはちょっと希望がもてますね。

 

と、いうことで数週間のてんやわんやの後保険のことは一件落着しました。

 

実際に満々万が一同じような境遇の方がこれを読んでいたとしたら、ご自身でしっかりいろいろな会社を比べたうえで選んでほしいと思いますが、僕自身結構その作業めんどくさかったりストレスだったので、一発スパッと決めてしまうのもいいかもしれません。

 

次に不安なことは

 

②再発への不安

 

自然治癒の再発率は約50%、手術した際の再発率は10%以下(医師の腕や術式による)だそうですが、いずれにしてもあまり低い数字だとは思えません。

 

特に、軽度の肺気胸は正直破れたか破れてないか微妙なくらいの症状なので、正直退院してから今まで4か月間で10回くらいは

 

「あれ、これ終わったかな、、」

 

って背筋凍らせました。

 

今となっては完全にお笑いですが、ちょっと判断力にかけるところのある僕は退院から一か月もたたないうちにやれ勉強合宿に参加して徹夜でプレゼン練ったり、母校の部活合宿にOBとして参加したり、留学前で家を引き払ってしまって数日ホームレス生活をしたりと大事な留学を直前に控えた病み上がり人間とは思えない行動を繰り広げていて、正直疲労もたまっていて、出発の二日前。

 

あれ、、これはやばい

 

ってなったわけです。もうほとんどパニックですよね。しかも意識を肺に向けすぎてるせいかもう何かありとあらゆる刺激が再発の兆候にしか思えなくなって、だんだんほんとに息苦しくなってきて、深呼吸したら痛いし・・・

 

って泣きそうになりながら出発前日に病院に行きました。

 

レントゲンの結果を待ってる間はもう大学受験の合格発表を待ってるみたいで(再発してたら飛行機代パーになっちゃいますし)地獄の時間でした。

 

まあ結局なんともなかったんですけど。母の涙。

 

 

肺、きれいに膨らんでますね。

 

って微笑んだおじいちゃん先生の笑顔を僕はわすれない。

 

医者は患者の体だけじゃない。心も救うんだと。

 

 

で、その後も飛行機の中の12時間とか、レポート提出前の余裕がなくなってる時とか、体感温度ー10度のなかヒートテック一枚でゴミ捨てに行ったときとか、昨日の夜とか、オワタポイントは腐るほど潜り抜けてきましたが

 

何とか今、無事です。

 

今となっては、ああ、またか、くらいのリアクションで受け流しています。

 

両肺ボンバーしてる兄も、手術後何度も病院に駆け込んでは何ともないと追い払われた後、今悟りの境地に達しています。

 

気をつけるに越したことはないですが、あまり気にしすぎるのも良くないのかもしれません。

 

 

ということで、長々と肺気胸シリーズを書いてまいりましたが、満々万が一同じような境遇になった方がいたとして、満々万が一冷静に対処できる一助となれたらと思います。

 

なんていうか、本当に病気は仕方がないことなのでいい感じでうけいれつつ付き合っていけたらいいですね。

 

ではでは。moi moi!

 

 

P.S.

病気になった時、信頼すべきはネットではなく医者だと思います!!!!

留学直前に肺気胸になった話③ 手術・退院編

こんにちは!moi!

 

前回前々回に続いて今回も肺気胸ストーリ―ございます。

 

すったもんだあって左肺がくしゃくしゃにつぶれてしまって僕ですが、検査のその日に即日入院することになりました。

 

流石にすぐに手術。。というわけにもいかないので、とりあえずはドレーンというなにやら大袈裟な装置を肺に差し込んで肺が膨らむまでの数日待つコトに。

 

詳しい仕組みはわからんのですが、簡単に言うと二重構造になっている肺の内膜と外膜の間にたまった空気を専用の器械につながったチューブを差し込むことで逃がす・・的なあれっぽいです。

 

これを差し込む瞬間がそれはそれは恐ろしやで、麻酔してるから激痛ということではないんですけど、ほんとにただ単純に皮膚の上からブスッと肺までチューブを差し込むんですよ。

 

応急処置室の簡易ベッドの上に寝っ転がされて、何か赤い液体を左胸あたり全体に塗られたと思ったら、

 

はい、いくよ~・・・はいっ 入ったー!

 

的な感じで次の習慣に目線を下に持ってくとなんか左乳首数センチ上あたりからなんか生えてるんですよ。にょきにょきって。

 

看護師さんってすごいなって思いました。

 

もう刺さってしまえばあとはベットの上で安静にしてるだけです。

 

チューブがつながってるドレーンの機械をトイレに行くたびにガラガラひきづって歩くのが何とも情けない。

 

チューブの先が体の中のどっかにあたるとこれまた痛くて寝返りもすんなり打てない自分がこれまた情けない。

 

そんなこんなで怠惰な入院ライフを送っていたらすぐに手術当日です。

 

一応全身麻酔なので一部尿管を通すといううわさがありましたが、僕の場合は任意制だったのできっぱりお断りさせていただきました。

 

当日朝からの絶食は強制でしたが。。

 

 

手術に関しては、、、

 

 

実はよく覚えてないのです。全身麻酔してるので当たり前ですが。

 

コードブルーだの白い巨塔だのの世界に連れていかれて、なんか色々管でつながれて、意識がぼんやりして、、

 

ンで起きたらすべてが終わってるわけです。

 

無人島に漂流した主人公目線のカメラワークみたいにだんだん視界が鮮明になっていって

 

ここはどこわたしは誰状態を1秒くらい通って

 

あー終わったんだー、、っていう安心感。

 

まだ麻酔が効いてたので痛いとかそういったことはあんまりなくて、そこはかとない安史観だけがそこにありました。

 

 

手術が終わってしまえば早いもんで

 

その日の夜にはもうあるけるようになってましたし、痛み止めを定期的に飲んでるので痛いことには十分痛いもののまあそれほどって感じで、、

 

二三日して気づいたら退院してました。

 

なんだか入院するまでのほうが大変だったんじゃあないかってくらい入院中はあっさりしていたような。(もちろん不安と焦りバンバンでしたがのど元過ぎれば・・)

 

やっぱり病気は自分でうんうん考えるより、一に医者、二に医者、三に家族で四に医者ですね。

 

ほんとに今となっては、入院中のことはあんまり覚えてなくて、医者にかかる前の不安な日々のほうが結構生々しく思い出せます。

 

心当たりがある人は、まず、お医者さんへ。Go to Doctor.  Mene Lääkäriin.

 

 

そして本当の悪夢はこれからなのでした。。という話でした。

 

手術後にいよいよ留学が数週間前と迫ってきて、本当に色々不安でした、という話を次回は書こうと思います。

 

ではでは。moi moi!