北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

偏差値お化け

こんにちは!moi!

 

前回フィンランドの教育の中で偏差値による居心地の悪さが生まれにくい的な話をしましたが、今回は僕自身が今までの数年間とフィンランド的価値観を照らし合わせて感じたことを書いてみたいと思います。

 

あまり細かくは書きませんが、僕と偏差値との蜜月は小学校高学年から始まって高校を卒業するまでの約8年間かなり真剣なお付き合いをさせていただきました。

 

僕が人生を語る時、僕は十代の僕を順位で表すことができます。もっとも簡略化して言えば小学校高学年時代は21人中20位で中高は240人中120位。これが僕の順位です。

 

今となってはヘルシンキvuosaari行のメトロが一分遅刻したくらいどうでもいいことなんですが、当時の僕にとってはその数字は紛れもなく自己認識の大きな一部でした。

 

周りにはそんな数字に負けないくらい強かで賢い友人が沢山いましたが、精神的に脆弱な僕はこのままでは何かが違ってしまうかもしれないと思って、コンクリートジャングルTOKYOから18歳の精一杯の意地で逃げ出したわけです。

 

とはいえ逃げ出した先もさほど状況は変わらず、なんだか現役組浪人組とかカテゴライズされたり、現役合格で新歓期楽しそうというだけで散々文句いわれたり(あやつのことは今でも嫌いです笑)、大学名聞いただけで態度が変わったり、生活の中のほんの小さな一部にすぎませんでしたが、それでも確かに、細かな違和感は絶えませんでした。

 

それで今、KYOTOからも逃げ出して遠く西のフィンランドに流れ着いてきたわけです。(別にそれが目的ではないのだけれども!)

 

 

フィンランドでは僕がどの高校に通ってどの塾に通って、どんな方法でどの大学に入ったかなんて、僕には目が二つあって鼻と口が一つずつあるくらいのインパクトしかありません。

 

もっと言えば、どんなインターンをしたとかどんなボランティアをしたとか、どんなキャリアパスを通ったとか通るとか、そういうのも日本でそれを言うほどのインパクトは全くありません。

 

その活動そのものに興味があったとしても、その裏にある、もしくはその表に覆いかぶさっている「先入観」がないからです。

 

だから結局周りの人がやってるからとか、やったらすごいと思われているから、とかそういう理由でやったすべてのことがむなしく感じられるのです。

 

ここでは自分がやりたくて、自分なりの信念があって、自分なりの自己表現として行ったこと、やってみたいことだけがストーリーとして成立します。

 

 

これだけ解放された環境にいて初めて、僕は自分がいかに周囲の視線や社会のプレッシャーにがんじがらめにされていたのかに気づきました。

 

確かにずっとずっと前から違和感として感じていて、常に頭のどこかで解放されたいと思って、心のどこかで息苦しいと思っていたものの、どうしていいのかわからず、結局最後は現実という二文字を楯にして歩き続けることしかできませんでした。

 

確かにその恩恵を沢山受けているはずだし、変に反抗せずおとなしく歩いてきたことは非常に合理的な判断だったと思っています。但しわからないのは、その恩恵を無批判にそのまま受け入れてしまっていいのかということ。このまま納得できない自分を無視して歩き続けてしまっていいのかということ。

 

大学に入ってから、僕は挫折したことがないから、本当にしんどい思いをしたことがないから本当のことが見えていないと色んな人に何度も言われました。びっくりするくらい、何度も。

 

僕自身その言葉に納得させられてしまっているようなところがあって、確かに僕が言っていることがただの浅い考え甘い考え、ロマンティシズムに過ぎないのかもしれない。結局学歴やお金が人を幸せにするのが現実なのかもしれない。僕はただそこから目を背けたいだけなのかもしれないと何度も思いました。

 

今でもそう思っています。僕はまだまだあまあまちゃんだから現実というものがどんなものなのか全然わからない。

 

 

でも留学してみて、

 

野菜しか食べない人にあって

 

その国トップレベルの大学にいて官僚を目指している人にあって

 

仕事をしてはやめて旅をして、、と繰り返している人にあって

 

自分の仕事を世界で一番だとなんのためらいもなく言ってのける人にあって

 

 

とにかくいろんな人に会って、それぞれがみんなまっすぐな目で時に顔を真っ赤にしながら自分が何を信じて生きているのかを語ってくれて

 

僕が感じていた違和感は間違っていなかったのだと、再び思い始めています。

 

確かに偏差値的な価値観で幸せになれる人もいるけれど、全員じゃない。

 

大学に入学した後でも、自分のことを浪人だなんだとレッテル貼りして、○○大学なのにこんなことを言うのも恥ずかしいですがと恥ずかしげもなく言ってのけて、常に曖昧で大きな評価軸の中で自分を位置づけることをやめられない人達を、というよりもう一人の僕をぼんやり眺めていると、僕らにはもっと新しい形の幸せが必要だという気になってくる。

 

現実云々という話をするのであれば、僕らの考えではなくてそんな現実の方が変わった方がいい。

 

そんな気になってくる。

 

なんだか感情的になってしまいました。

 

まだまだですね。

 

それでは。moi moi!