原体験何ぞないならないでない方がいいのかもしれないしそうとも言えないのかもしれない。
こんにちは!moi !
今日はテストにレポートに(ほとんど)すべてが終わって、久しぶりののんびりとした朝でした。
kindleとyoutubeを延々往復している中でふと目を外に向けると、、
縦に伸びる虹が!
ズームして光量落としてみると
!!絶対誰か降臨してるよね。
しかも今日は宙を舞う微細な雪が太陽に照らされていて、非常に神秘的な朝でした。
11月は雨が降って大雪が降ってそのほかは曇ってて、氷点下になって、、
ああいよいよ冬がくるなーとやきもきしていたのですが、12月になってみるとなんだかお天道様も気分を持ち直したようで、初旬は晴れの日も多く、気温も氷点下あたりをうろちょろする程度で、京都の二月とそんなに変わらないくらいです
過去すでに一度ヘルシンキで交換留学しているルームメイトは、数年前のこの時期は―20まで下がっていたというので、どうやらラッキーな時にこれたようです。。(逆に-2,3度では何とも思わなくなっているのも怖いですが)
それに12月はクリスマスシーズンで町中ライトアップされているので、どんよりとした11月よりも精神衛生上断然よきだと思います。
さて、授業に追われて下書きばかりがたまっていく一方ですが
こんな徒然草的な文章であっても、常に人の目を意識しながらものを考えるというのはとてもよき良きな経験になっているので
余裕がある限り積極的に色々書いてみたいと思います。
本日のトピックはずばり
「原体験」
です。
大学生ならばおそらく一度は聞いたことがあるような言葉だと思いますが、簡単にまとめると「モチベーションの素」みたいな感じでしょうかね。
あの体験があったからこそ今の自分がある、、、
あの時のことが忘れられなくて今こうして頑張っている、、、
みたいな感動秘話的な感じで使われることが多いです。(そういう気がしています。)
具体的な例を出すと生々しくて少し意地汚い気もしますが、いじめられた経験がある人が大学に入ってボランティアでいじめ問題に取り組むなんてことは聞かない話ではないと思います。ポジティブなやつで言いますと、僕の例でいうと、高校時代ちょびっと経験した海外ホームステイがめちゃくちゃ意義深いと思えたので、大学に入ってから留学促進的なボランティアをちょびっとしてました。
こういうの全部、原体験ですよね。
で、まあ
前例二つからもわかるように原体験にはポジとネガの二種類あって
楽しすぎて人生に大きな影響を与えたver. と辛すぎて今でも忘れられないver.にわけられると思うわけです。今回は両方意識しつつ主に後者にフォーカスをあてて書いてみようと思っています。
大学生って、一部でなんだか人とは違う私の体験。みたいなのを披露する機会がたまに出現するわけで、僕も要所要所で繰り広げてきたわけなのですが、そういう話に対するレスポンスとして必ず一定数あるのが
「いやー僕はそんな人に話せるような経験持ってないし」
「僕の人生ほんっとに普通だから!フツウ!」
みたいな回答。ちょっと自己否定と卑屈が入ってるような。
特にこういう言葉は語られた体験のインパクトが大きければ大きいほど、もしくは深刻であればあるほど、多く耳にします。
ここで注目したいのが、こうした語り手と聞き手のアンバランスなやりとりが繰り返されることによって、「原体験」が「権威」になってしまうという現象です。
「え。君の原体験は?・・・え!?ないの??・・・・ふーん。」
「・・・」
みたいな。
苦労したことがないコンプレックスというか。
確かに、何か大きな経験をしたときには、割かしそこから学べることは多いわけです。楽な道より大変な道を選んだ方がそこから学べることは大きい可能性が高いわけです。
とりあえず今の風潮として、何をするにせよ学ばなければいけない、学ぶべきみたいなことになってますから、そういう意味で原体験を語ることは自分の経験値の高さ、視座の高さみたいなものを相手に暗に伝えるような働きを持ってしまうのは仕方のないことだと思います。
でも、それは人が勝手に価値判断をしただけの代物であって、
実際、原体験ってそんなに見上げたような存在なのでしょうか。
僕はいつも、「事実と価値をできるだけ分別する」ということを常々意識していて、そういう意味で、体験はただの体験に過ぎず、「縦に伸びる虹を見た」ことと「過去にすごくつらい思いをした」ことは実質何ら違いのないことなのではないかと感じています。
でもそれが自分の中で反芻されたり、他者に語られることになったり、未来の選択に意識的に関係させられたりしていくとどんどん価値が複雑に絡んできて、もとあった原型が見えにくくなっていくのかもしれません。
こう考えると、自分の原体験を内省や表現する際に、それらが自分にとってどのような価値を持っているのか、そして自分以外の他人にそれがどのような価値をもっているように見えるのかを考えることはとても大切だと思います。
もっとも分かりやすく型にはめ込んだ例を出してしまえば、結局原体験を語る人は時としてそれを単なる自己正当化や相手を圧倒する道具(権威)として使ってしまう(つまり原体験にそういった道具としての価値を見出してしまう)恐れがあるからです。
そういった歪んだ使用は、(なんと表現していいかわかりませんが)なんか「経験・体験の作られた絶対性」?みたいなものに覆い隠されて、全員がなんとなくその歪みを感じつつもその正体がよくわからないままことが進んでしまいます。
作られた絶対性といったのは、原体験に高い価値を見出しすぎてしまっている、もしくは何らかの理由でその価値に固執しすぎてしまっているが故に、その価値は自分が得たその体験でしか得られない!といった考えにいたってしまう恐れがあるからです。こうなると他者である聞き手はなにも言えなくなってしまう。
要は原体験を強烈に意識するということは、原体験に囚われて抜け出せていないということでもあり、体験とはどこまでも主観的なものなので、そこには必ずある程度の盲目的な偏りがあるということは避けられないのだと思います。
ここで一つ挟んでおきたいのは、そういういびつな権威の利用が悪いとは思っていません。そういう時もあります。でも、少なくともその場にいる誰もがその場で何が起こっているかを冷静に判断できない場合にそのいびつさが問題を引き起こしてしまうと思うのです。
自分の体験に対して自分がどういう価値を見出しているのか、またその体験が今自分にどういう力を持っているのかというのをどっか冷静に考えられないと、色々間違いがおこるかもなーなんて。
ここまで考えて、
あー原体験なんてないならないでないほうがいいなー
と思ったわけです。
色々調子狂うし
教育界隈なんて原体験病の巣窟みたいなとこなんだろうし。
現在のいじめ問題について語る時に語るべきは現在のいじめ問題についてであって、もしくは今タイムリーにいじめられている子たちの声であって、自身のいじめられていた経験ではありません。自分の経験を、自分の主張が相手に納得されるために利用することは僕はなるべく避けるべきだと思っています。なにかが歪んでしまうから。
ただ、
でもでもそうはいってもですよ
結局事実と価値を、自分の経験と他人の経験を、心を強く持ってしっかり分けて考えることが出来れば、原体験(特にネガティブな)が強力なモチベーションになることも事実だとも思うのです。
それに「自分にしかわからない思い」みたいなものは、気をつけて扱うべきだけれど、無視するにはもったいなさ過ぎるほど多くのものを含んでいると思うし、、
諸刃の剣的な。
それでこのタイトル。
ちゃんちゃん。
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なんでこんなことを考えてしまってのかというと
実はぼくもわりと原体験ボーイだったのですが
フィンランドにきたことで、物理的な距離的にも気持ち的に今までの自分、今の自分から随分な距離を置くことが出来て
まあ、見えなかったことが見えてくる的な・・?
僕成長しちゃってます的な・・?
感じになってるわけです。
特にフィンランドという土地はものすごい僕にあってるみたいでまあ余裕のないときがほとんどですがたまにドカッとジャイアントYOYUみたいなのが降ってわいてくるのです。
そうすると、自分がぺらぺらぺらぺら語ってたことって、表の価値と内実の価値が全然違ってて、幾分か空虚だったなって思うこともあって
こういうことを思ったわけです。
(本当は人種差別の授業で、マイノリティと分類されている人達が積極的に発言する一方で白人男性ストレートクリスチャンみたいなポジションの人達が、「僕は経験がないので本当のところはよくわからないのですが、、、」というようなことを言葉頭に居心地が悪そうにつけているのを見たのがきっかけなのですが、これまたいろんな意味でややこしくなりそうだしネットでは色々伝わりそうもないのでなかったことにしました。)
やっぱり何かに行き詰っている時は環境を変えるってすごく大事だということを実感していて
特に同じような環境にずっといるとどっか凝り固まってしまうとこがあるし、それ自体は全然問題ないのだけれど、時々よくない固まり方をしてしまうから・・・要は、、
・・・・要約すると、、、
KEEP CALM and GO WITH THE FLOW!!
ということですね!
イギリスミーハーになりたくなければ、take a deep breath とかでもいいし
最後にwith sinserety とかつけばもっと最高ですね。
ではでは
moi moi!!