北欧留学記ーフィンランド・ヘルシンキ大学ー

フィンランド、ヘルシンキ大学での留学生活について綴ります。

溶けていくこと

こんにちは。 moi !

 

今日はいつもとは違うテイストで何かしらを書いてみたいと思います。

 

 

去年の八月に初めてヨーロッパの地を踏んでからはや9ヵ月が経とうとしていることになりますが、何となくたくさんのことを経験したような気もしていれば、まだ経験できることのうちのほとんど何も経験していないような気もしています。

 

フィンランド教育を教育学的、社会的、文化的、哲学的、、、とにかく色々な面から観察するなど大口を叩いて、有り余るほどの支援を頂いて今ここにいるわけですが、最終的にそれに見合った学習ができたのかどうかは自分でも測りかねているところです。

 

でもそんな哀愁の中で唯一胸を張って「かけがえのない」などとアナザースカイでしか聞かないような表現を当てはめられる経験がありまして

 

それがタイトルの通り「溶けていく」という経験です。

 

なんだかんだ言って九か月も異国の地に居れば、ただ飯食って散歩して寝てを繰り返しているだけで新しい発見や刺激で心はぐいぐい動くものです。

 

日本にいたら間違いなく絶対にやらないようなことをやり、行かないようなところに行き、今までの人生で会ったことのないような人に沢山出会いました。

 

その度に自分の中で何かがじわっと「溶けていく」という感覚を覚えました。

 

 

やたらと涙を誘ってくる映画やドラマのせいで、思春期青年期の人生がいかに楽しくあるべきかが規範として刷り込まれている21世紀に他の多くの人と同じように思うようにいかなくて躓いてばかりだった僕はほとんど拗ねてふて寝寸前のところだったのですが

 

社会の流れが速すぎておちおちふて寝など出来なかった代わりに、低予算で作ったハリボテの規範や偏見を支えにしてとりあえずは疎外されないように日々を過ごしてきた感があります。

 

ただし、ハリボテといっても我ながらよく出来ていたもので、長いこと使用しているうちにだんだんとそのハリボテがリアリティを増してきて、それを身にまとっていることに対して違和感を抱かなくなっていたのだと思います。

 

しかし驚いたことに、留学中はせっかく身にまとったハリボテは全く本来の効果を発揮せず、ただの重荷にしかならないのです。

 

無人島に一人漂着したら誰でもつけているピアスを外すでしょう。

 

そんな具合で、小さいころから体に染みつけてきた、何かをしなければいけない、とかした方が良いとかそういう理由をすっ飛ばして感覚的に、身体的に身に着けてきた全ての考えが場所に行き、人と会い、言葉を交わすことで少しずつ自分の中で薄まっていく気がしました。

 

もちろんそうやって今までの考えが否定されることに対して、自分から何もなくなっていくような、そして今までの自分の人生そのものが否定されるようなストレスもあります。生理的な拒否反応みたいなものもはっきりと感じます。

 

でも正直に言って、そこまで強くしがみついていたいような生き方をしてきてはいません。どっちかっていえばくだらないしろくでもない。

 

それでもあと何十年も時間は続いてしまうのだから、このまま溶け続けてもうほとんどなくなってしまうまでになってもそこから何かより良いものが生まれて

 

それと一緒に十年でも二十年でも生きていけるのであれば万々歳だと思う。

 

それに浅薄で頑固な僕はきっとまだ表面すら溶け切ってないから心配ない。

 

 

この変化が「良い」方向に向いているのか「悪い」方向に向いているのかはわからないが、感覚がこの経験は「かけがえのない」といっている。

 

 

以上。moi moi!