なんだかんだ言って学校で習ったことは役に立つかもしれない話
こんにちは。moi!
授業の予習復習が増えてきてあわあわしてるぼくです。
一個授業受けるだけでわりとぐったりなので、一日に3コマ入ってた日なんぞや後半英語がお経のように聞こえてくる次第であります。
唯一の救いはヘルシンキの空気。
街全体がリラックスしているので、ちょっと街を歩くだけでなで肩になること間違いなし。都市と自然の距離感とか関係性が丁度いい。。。
↑夕日を見るためだけに海まで歩いていって、ただ見続ける、、という胸熱イベント。
↑ヘルシンキの海鳥は基本偉そう。横柄で強欲。そして全員デブ。
↑そして目抜き通りではしゃれおつクラシックのストリートライブが毎日行われます。最初は感動して立ち止まっていたものの、演目が(おそらく)毎日同じなので今はガン無視です。次替わりなのかな。夏限定とか?
それでそれはいいとして、
先日友人に誘われてヘルシンキの港からフェリーですぐのところにある島に行ってみたんです。
島を練り歩いていて、BBQスポット的なところを見つけて
一休みするか、、的なノリになったところで・・・
イタリア人ギターを取り出す。
イタリア人歌いだす。
合唱。
となったわけです。
ここからが今回の本題。
おやおやこれは楽しいぞ、と思いながらイタリア語わからないまま適当ににやにやしてたら、一人が
「なんかイタリアの歌しってるか」と聞いてきました。
・・・皆さん、イタリアの歌なにか知ってますか?
僕は素晴らしい瞬発力で「オーソレミヨ」と答えました。音痴な鼻歌つきで。そっから10分くらいオーソレミヨトークですよ。フィンランド人がサウナで急にオーソレミヨ歌いだした話とかなんとか。
その時僕は母校でオーソレミヨを習った時に
「何でイタリア語覚えなあかんねん。日本語でええやろ」
という愚痴を友人と共有してたことを思い出していました。なぜかエセ関西弁。
でもイタリア人を前にしてオーソレミヨの歌詞は僕の知っている唯一のイタリア語。まあ、適当な会話のきっかけってやつですね。
その日だけじゃなくで、他にも、源氏物語に詳しい中国人がいたり、授業中のディスカッションで聖書の話で盛り上がるとか、フランス革命に影響を受けてる社会問題とか、
まあ色々あるわけです。
いわゆる教養ってやつですかね。これもまたいろんな議論があるのでしょうが。。
とにかく、毎日今まで自分が意識してこなかった海馬の奥の奥に眠っていた「なんか中学の先生がいってたナア」みたいな話がぽっとわき出てくる体験を今沢山しています。これは大学に入学した時も少し感じたけれど、その日じゃないくらい毎日いろんな領域からの会話が求められていると思います。
数学や理科はどんなんだという疑問もありますが、それも数学的思考や科学的世界観など無意識のレベルで今の生活を支えてるのではと想像しています。
中高における知識観を教養主義に押しとどめようとは思わないし、会話のコンテンツ力で言えば学校の外で得るもののほうがはるかに大きいと思うし
英数国理社万歳\(^o^)/中学高校生のみんな!学べ!将来絶対役に立つぞ!
なんて満面の笑みで言われたら鳥肌ものではあるのだけれども
少なくとも当時無機質でひたすら点数に換算されていくだけのものだった知識が、今はすごくライブ感があって、「必要」なものにすらなっているという事実。
全員が学校で学んだことを全部活かして人生を作っていくわけではないけれど、それでも学校で学ぶことの全てが「いつか生きるかもしれない」凄く開かれた存在であるのだなぁと思いました。
でもかといって学校で習うことはあまりにも抽象的で現実味を感じることは難しいから、希望的観測だけをモチベーションにして学び続けるのはちょっと非現実的ですよね。
となると開かれた知識を閉じないように生徒に伝えるのは先生の授業設計とお上様の学習指導要領の責任なのでしょうか。
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