念願の学校訪問をしたよ、という話
こんにちは!moi!
ヘルシンキはいよいよ寒くなって参りました。
朝起きたら、、
2度。
ヒートテック・セーター・セーター・秋冬用ジャケット・ユニクロウルトラライトダウンというフル装備で登校しております。
本日の一枚はこちら
部屋の窓からの景色。寮の中庭です。左下に見えますでしょうか、暖炉。
マシュマロが焼けちゃいます。幸福の形。寒かった・・・
続いてこちら
家から徒歩5分のところにある公共ビーチ。こちらでは・・
こんなことができます。寒かった・・・。
と、いうことで、なんともいえぬスローライフを送っている僕ですが先日ようやく、
念願の・・・
学校見学に行ってまいりまいした!!
エスポーというヘルシンキのとなりの市にある公立中学校を見させて頂きました。
日本の学校と似ているところ、全く違うところ、すごいなーと思ったところ、そうでもないな、と思ったところ、注目すべきところがたくさんあって刺激的でした。
今回はとったメモを参考に見たもの、聞いたことを出来るだけそのままの形で、少し紹介したいと思います。
学校に入ってまず通されたのは職員室。北欧らしいデザインと色使いのモダンな職員室でした。working room とrelaxing roomがあってrelaxing room が一番多きかったのが印象的でした。システムキッチンやビーズクッション等もあってショールームで展示されているリビングみたいな。プリントの山とかほとんどもなく全体的にすっきりしてました。
最初に見学した授業はhealth care の授業。一番近い科目は家庭科でしょうか。授業テーマは摂食障害について。先生がパワポのスライドを使って説明しつつ、たまにペアディスカッションをはさみつつ、といった具合。
ここでまず驚いたのは、この授業all englishで行われているということ。中三です。
anorexia とか bulimiaとか、小難しい単語バンバン出てきてました。
中三にして英語「で」学ぶ。どっかの国立大学が最近ようやくいいだしたことですね。
でもよくよく話を聞くと、all englishのクラスは選択制で基本的には親の方針で受けるかどうか決まるそうです。そしてとってる学生の大体は幼稚園、小学校から all english になれてるのでここまで英語が使えるのであって、全生徒が、ということではありません。
続いては英語の授業。これは、英語「を」学ぶ授業です。
普通の英語の授業ってことですね。
でもねでもね
ここでもやっぱり all english でした。
英語「を」英語「で」学ぶわけですね。
生徒の英語力にはかなり差があるように見えました。小説「蠅の王」を教材にして章ごとに読んで、先生が作った質問(彼はなぜそのような行動をとったのでしょう、みたいな国語チックな質問)の答えを英作文してノートに書いて、それについてディスカッション、という流れだったのですが、全部の文が I think で始まって30ワードくらいしか書いていない生徒もいれば、一つの質問に100ワード以上淀みなく書き進める生徒も居ました。生徒とも少し喋ったのですが、一言二言で会話が終わってしまう子もいれば何の問題もなく普通に会話できる子もいました。
でも、さらっと言いましたが、教材は「蠅の王」です。当たり前のように原書。簡略化されたペンギンブックスとかじゃありません。
この本は難しいから、一週間に2章しか読めないの、と先生が言った時思わず笑ってしまいました。
まあ、フィンランドの英語力に関してはいろいろ要因があるようなのでまた別で調べて書こうと思います。
最後の授業は生物。ちな all english 。
youtubeに上がってる教材動画を使って、キノコの構造と部位の名前を学びます。
なんというかこちらは一番僕の知ってる日本の授業に近い形でした。考えるというよりかは、覚える。書いて覚える。all English であること以外は特に変わったことはありませんでした。(先生も、この授業つまらないわよね、と終わった後言ってました)
さてさてそんな感じで始まり追わった学校見学ですが、全体を通して気になったことがいくつか。
1.全教室ICT完備!!
プロジェクターと、スクリーン、PC、あの手元映すやつ、音響、etc、これらが「全教室」に備わってました。先生もパワポだったりyoutubeだったりを使って授業します。もちろん黒板も使いますがあくまで補助的な用途で。
2.制服がない
フィンランドではいまや制服がある学校はもう存在しないそうです。生徒は思い思いの服を着てました(しゃれつくかと思いきや男子は大体スウェットかジャージ)。髪の色も自由。もちろん長さも。あまりにもセクシーすぎる場合を除いて見た目に関する制限はないといっていました。
3.完全移動教室性
なんと休み時間は生徒は教室から追い出されてしまいます。教室がオートロックで中から先生が開けてくれないと教室に入れないので、授業が始まるまでは生徒は廊下で待機します。廊下にずらっと子供たちが座ったり寝っ転がったりしている光景はなんとも圧巻でした。授業資料などをいちいち職員室と往復させずに済むので先生の負担はかなり減るそうです。ちなみに(もちろん?)席は自由席でした。
日本だと下手したら同じ場所に同じメンバーと何時間もずっと一緒にいるわけで、そういうところでの生徒への影響とかも、案外違ってきたりするのかもしれませんね。
4.クラスサイズは基本20人
どのクラスも20人程度で構成されていました。男女比はクラスによってまちまちです。
パット思いだせる限りではこれくらいです。あと言っておきたいことは部活がないことくらいですかね。放課後の活動は完全に学校は無関係。
カリキュラムや特別教育についても聞いたのですが、それに関してはもっと大きいところの制度的な話になってしまうので、キチンと授業でやり終わってから書こうと思います。
来週、また別の学校を訪問させていただくことになっているので、また新しい発見をしてきたいと思います。
ではでは。moi moi!
P.S.
写真は給食だけでご勘弁。もちろん教室ではなく、大きなカフェテリアで食べます。調理室直結でセルフサービス。ポテトと野菜は取り放題。パンも食べ放題(多分)
もちろん、無料です。
アメリカ人に発音を褒められたら本当に嬉しいのかという話。
こんにちは。moi!
通学路の公園に謎の鳥が大量出没したというただそれだけの話です。こいつら結構でかいんですけど伝わらないのが残念です。
前回の記事の後、日本にいる僕の司令塔から「君最近のブログちょっとやばくなってきてるよ。もっと洗剤と柔軟剤間違えたみたいな感じのやつないの?」というありがたいお言葉をいただきました。
確かに。硬い。固い。堅い。
でも前回は、レポート提出前のてんやわんやの中だったので勘弁してください。みなさんレポートの下書きの下書きの下書きを文字にしたらあんな感じになりませんか・・??
と、いうことで、こんな僕でも面白い話の一つぐらいみっかるだろうと探し始めた留学一か月目です。
そして今回のテーマは
「英語のアクセントについて」
です。堅い!!
まあ洗剤と柔軟剤を間違えるのはおいおいやるとして、、
ヘルシンキについてから、基本的に留学生同士で時間を過ごすことが多いので、いろんな国のアクセントを持った英語に毎日触れているわけです。
英語以外の外国語を良く知ってるわけではないので、詳しいことはわかりませんが、アクセントの置き方、各母音の発音の仕方、ピッチ、英語のいろんな側面がそれぞれの言語の特徴に沿って引っ張られてる感じです。
で、一つ例として、先生が強烈なお国訛り(南米出身といっていたのでスペイン語とかポルトガル語訛り・・?)で授業するクラスがありまして、あまりにもアクセントが強いので正直全然内容が頭にはいってこないんですよ。
流石にこれはやりすぎ・・と思って周りの友達に聞いてみたら
めっちゃわかるわー
みたいな。
僕の周りでは僕を含め基本的にアメリカ英語っぽくというか、アメリカ英語に寄せて喋っている人が多い印象を持ってます。(特にアメリカ英語とは、みたいなところに具体的な意見も知識も持ってないのでそこのところは見逃してください。敢えて言うならばアメリカのTVドラマで主に多数派として使われている英語のことを想定しています。)
でも中には彼女のように明らかにクセのあるというか、僕も自分がきれいなアメリカ英語を喋れてるとは全く思っていないけれど、その比じゃないというか、一瞬英語かそうでないか迷うようなアクセントを持っている人も一定数いるんですよね。僕は毎日発音練習してるんですけど、そういうのないの?みたいな。
アメリカ英語を一つの「お手本」として勉強してきて、一生懸命Rの巻き舌を練習してきた身としては、ここで一つ疑問が持ちあがります。
彼らは自分の発音についてどう思っているのだろうか。。。
考えられる可能性は3つ。
1.実はアメリカ英語に直したいと思っている(僕が実はあいつの発音超やべーって誰かのブログに書かれてる感じ)
2.アイデンティティやプライドとしてわざとお国訛りで喋っている
3.特に何も考えていない
皆さんはどうですか?自分の英語の発音についてどう思っていますか?帰国生の発音にあこがれたことがありますか?自分のアクセントにプライドを持っていますか?
僕個人としては、「アメリカ英語流暢に喋れるやつかっけー期」を丁度通り越して3番に移行しつつある感じです。強いてアメリカ英語を喋っている理由をあげるならばアメリカ英語を学んでおけば安パイだから、でしょうか。特に日本語アクセントにアイデンティティを見出したりプライドを感じたりしたことも今のところあまりありません。
なんでこんなことを考えているかといえば、何人か共感してくれればうれしいんですけど、小学生中学生の時、海外の国といえばアメリカ。英語といえばアメリカ。歌も映画も日本じゃないものは大体アメリカ。こんな感じの世界観でした。もう流石に外国=アメリカの時期は終わったとはいえ、英語に関してはやっぱりなんとなく「正しい英語=アメリカ英語」的な感覚は残っていて
だからそういう価値観を全く共有できなさそうな人があまりにも周りにあふれだすと自然とちょっとした違和感みたいなのを感じてしまうんですよね。
ここで例によって話を大きくすると、英語って結局誰のもの何でしょうか(もちろん誰のものでもないけれど。。)。何をもってして正しい英語何でしょうか。英語って何なんだ!!
こうなってくるともはや発音云々だけでなく、スペルとか活用とか語彙とかそういうところまで関わってきますね。
まず、アメリカ合衆国で話されている英語と僕が中学校高校で習った英語は恐らく同じ英語だと思います。eat の過去形は ate。それ以外は✖。
でも今僕が使ってる英語はそれとは大分性質の違う英語を使ってるはず。共通語としての英語的な。リンガフランカ的な。こちらはeat の過去形がeatedでありうる言葉。伝わればいいじゃないか。ネイティブじゃなくても気兼ねなく造語作り放題。伝わればいいんだもん。
今、大文部科学省先生がcommunicative languageをやたらプッシュし始めたのは彼らの求める英語観が後者のほうにシフトしてきたってことなのかな。
確かに、英語をコミュニケーションのツールだと考えれば、コミュニケーションあっての英語であって、英語あってのコミュニケーションではないと感じます。(だから結構苦労してます笑)
僕は英語を勉強している時、「人のもの」を拝借して使用説明書を見ながらじょじょに使いこなしていくようなイメージをもっていたけれど
既に自分の中で自分のルールにそって持ってるものを、相手に伝わるように相手の持ってるものやルールを考慮に入れて使う、みたいな見方もできるような気がしてきました。こっちのほうが英語を使うハードル、ぐっと下がりますよね。
説明書が一個なら使い方も一個だけれど、それでないなら使い方は無限大ですよね。相手のルールに100%合わせて使ってもいいし、相手が自分のルールに合わせてくれることを期待してもいいし。どこで折り合いをつけるかは完全に自由です。
ただ、まあ現実として持ち札少なすぎだし、普通に会話に支障あるんで、おとなしく「英語」勉強したいと思います。
moi moi!!
P.S.
アメリカやイギリスが長年かけて作り上げてきたという言葉の深さを考えると、学校では「チャラい英語」だけでなく「折り目正しい英語」もきちんと教えてあげてほしいなとも思います。
”人差し指と中指まげてちょんちょんするあれ”使い過ぎ問題。多文化共生社会って難しい・・・
こんにちは。moi!
本日はintroduction to Finnish culture and society という授業のグループアサインメントの一環でヘルシンキ近郊の島に行ってきました。
結果・・・
リスに・・
襲われました。
餌よこせてきなね。もうちょっと遠慮しても良かったんじゃないかな。君。
胸キュンでした。
と、いうことで本日は
”人差し指と中指まげてちょんちょんするあれ”
について書こうと思います。
海外ドラマなどよく観る人はなじみがあると思います。あと海外かぶれの日本人をいじりたくてしょうがない人とかも良く知ってると思います。ちょんちょんするあれ。両手人差し指中指を立てて二回軽く曲げるあれです。
文字に書き起こすとすると
””(クオーテーション)
ですね。
日本語でいうと、所謂、が一番近い言葉だと思います。
意味としては、言葉通りの意味じゃないよ、裏にいろんな含意が隠れてるよ、今あえてこの言葉つかってるよ、上手く説明できないけど(いちいち言葉にしないけど)なんとなくわかるでしょ僕の言いたいこと、、みたいな感じではないでしょうか。
凡例としては、超絶ぶりっこ女子のことについて話している時に
「彼女って”かわいい”(☚『か』の直後あたりで二回ちょんちょん)よね」
みたいにして使います。
さて、このちょんちょん、日常会話の中で使われることももちろんあるのですが、最も多く使われる授業があります。
それが多文化共生教育の授業。
カルチャーギャップや移民問題、マイノリティに差別などが主にテーマとなっている授業です。
この授業、中々先生が強烈な人で、世の中にいかにステレオタイピングや偏見、先入観が隠れているか、いかに人々がそれに無意識的であるかを実体験に基づいて漫談風にマシンガントークしてくれるので、ああもっと英語聞けたらいいのにと毎回思わされます。
さて、この授業の冒頭で先生がいったことが僕らをちょんちょん地獄へと陥れることになります。
それが
「文化ってどこにあるの?社会ってどこにあるの?誰がつくったの?そんなもの存在しないじゃないか」
「フィンランド人はシャイだって言う人、それ君があったフィンランド人がシャイだっただけでしょ?そもそもフィンランド人って誰のこといってるの?」
もちろんこの問もきっと先生の中ではクオーテーションだらけだったと思います。
それはさておき、こんなことをいわれてしまった学生たちは意見を言う時にもあらゆる言葉に敏感にならざるを得ません。
”文化””社会””マイノリティ””価値””○○人”etc...
あらゆる言葉にあらゆる意味可能性が含まれていること、普段使っている言葉の中に自分でも気づかない含意が含まれていること、実はよくわかっていないのになんとなくわかった気になって使っている言葉があること
その世界は膨大すぎて思わず考えるのをやめてしまいたくなるくらいです。
発言する学生も言葉を何度も説明しなおしたり、形容詞をいくつもつけたりして試行錯誤している感じ。
さて、このクオーテーション問題、この一教室だけの問題ではなくて、フィンランド全体の問題にもなっているようです。
実はフィンランドは今まで同質性の非常に高い国だといわれてきたそうです。どこかのアジアの島国みたいですね。
確かにすごい白人社会だなーと思います。アジア人はあまり見かけません。
それでも最近の移民難民問題に従ってそうした自己認識をただす動きがはじまっています。またそうした認識の変化がすでに昔から存在した様々なマイノリティの再認識にもつながっているようです。(例えば先住民であるサーミ人や歴史的関係から昔から住んでいるロシア系、ロマ人、ユダヤ人、タタール人などは昔からの問題。言語的マイノリティという面では彼らの言葉に加え公用語の一つであるスウェーデン語話者もそのうちの日一つに数えられる。)
そうなって初めてちょんちょんがたくさん必要な状況が生まれてきたわけですね。
そこで生まれる議論は例外なく考えなければならないことが沢山あって、極端にリベラルな人はなんでもおっけ―!って感じなんでしょうけど、そういう考えは寛容に見えて文化や社会を個人のレベルにまで徹底的に解体してしまって、”自文化”を守りたい人達の反対を押し切ってまでをそこを許容する確信をどうやって持てばいいかは全く不明だし、だからといってそういった保守の考えは誰かを疎外せずには存在できないようだし。
それに、アメリカ人の話で、リベラルを追求しようとした彼らはちょっとした言葉にすぐ規制やクレームがつくある意味で非常に窮屈な環境が生まれてきているそうです。今話題のポリティカルコレクトネス問題というやつです。
たとえばこの直前の文章も「いや、アメリカじゃなくてU.S.じゃなきゃダメでしょ」みたいな突っ込みが入る・・かもしれません。
宗教はどこまで受け入れられうるのか、文化はどこまで行為の「正当な理由」として認められるのか(大学でレポートを剽窃した学生がそれを文化だと訴えて見逃してもらうという例が少なからずあったそうです)。差別と区別の境界線はどこに引かれるべきなのか、、問題は山積しています。
これらの問題に対して先生は、「文脈」という言葉を沢山使っていました。文脈をなくしてはどんな言葉も差別的になる可能性があると。確かに正しい答えが一つだけなわけがないので、「文脈」や「柔軟性」が最低でも必要になってくるものだと思います。
でもそうした言葉はある場面では非常にうまく機能する一方で、そのあいまいさが隠してしまうものもあるし、悪用されやすい言葉でもあります。
一体全体どうすればいいのでしょう。ヘルプミ―。アプア!(←フィンランド語で助けての意)
こんな風に毎回圧倒されています。。頭痛がしてきます。。という話でした。
僕自身がこの場で意見を言うとしたら
むずかしい!!!
の一言くらいでしょうか。まあ一学生が気軽にとやかく言える問題でもありませんよね。問題を大きくして話をいい感じにまとめるのは僕の悪い癖です。
で、最後の最後に思ったことなのですが
この問題は本当に難しいと感じていて、一人の力じゃどうにもならないのではないかと思います。
哲学的基礎、科学的データや理論、臨床的方法論、政治、そして現場、各方面が各方面のやり方で力を合わせてやっとこさ1mm動いた!みたいな感じでしょうか。
だから、”””””きわめて同質性が高い”””””日本でもそういう問題に向き合う大きなプラットフォームが必要になってくるのかもしれません。答えが出なくても議論すること自体に意味があると思うし。
moi moi!
P.S. まあまず大切なのは、半径10㍍、千里の道も一歩から、ですね。
なんだかんだ言って学校で習ったことは役に立つかもしれない話
こんにちは。moi!
授業の予習復習が増えてきてあわあわしてるぼくです。
一個授業受けるだけでわりとぐったりなので、一日に3コマ入ってた日なんぞや後半英語がお経のように聞こえてくる次第であります。
唯一の救いはヘルシンキの空気。
街全体がリラックスしているので、ちょっと街を歩くだけでなで肩になること間違いなし。都市と自然の距離感とか関係性が丁度いい。。。
↑夕日を見るためだけに海まで歩いていって、ただ見続ける、、という胸熱イベント。
↑ヘルシンキの海鳥は基本偉そう。横柄で強欲。そして全員デブ。
↑そして目抜き通りではしゃれおつクラシックのストリートライブが毎日行われます。最初は感動して立ち止まっていたものの、演目が(おそらく)毎日同じなので今はガン無視です。次替わりなのかな。夏限定とか?
それでそれはいいとして、
先日友人に誘われてヘルシンキの港からフェリーですぐのところにある島に行ってみたんです。
島を練り歩いていて、BBQスポット的なところを見つけて
一休みするか、、的なノリになったところで・・・
イタリア人ギターを取り出す。
イタリア人歌いだす。
合唱。
となったわけです。
ここからが今回の本題。
おやおやこれは楽しいぞ、と思いながらイタリア語わからないまま適当ににやにやしてたら、一人が
「なんかイタリアの歌しってるか」と聞いてきました。
・・・皆さん、イタリアの歌なにか知ってますか?
僕は素晴らしい瞬発力で「オーソレミヨ」と答えました。音痴な鼻歌つきで。そっから10分くらいオーソレミヨトークですよ。フィンランド人がサウナで急にオーソレミヨ歌いだした話とかなんとか。
その時僕は母校でオーソレミヨを習った時に
「何でイタリア語覚えなあかんねん。日本語でええやろ」
という愚痴を友人と共有してたことを思い出していました。なぜかエセ関西弁。
でもイタリア人を前にしてオーソレミヨの歌詞は僕の知っている唯一のイタリア語。まあ、適当な会話のきっかけってやつですね。
その日だけじゃなくで、他にも、源氏物語に詳しい中国人がいたり、授業中のディスカッションで聖書の話で盛り上がるとか、フランス革命に影響を受けてる社会問題とか、
まあ色々あるわけです。
いわゆる教養ってやつですかね。これもまたいろんな議論があるのでしょうが。。
とにかく、毎日今まで自分が意識してこなかった海馬の奥の奥に眠っていた「なんか中学の先生がいってたナア」みたいな話がぽっとわき出てくる体験を今沢山しています。これは大学に入学した時も少し感じたけれど、その日じゃないくらい毎日いろんな領域からの会話が求められていると思います。
数学や理科はどんなんだという疑問もありますが、それも数学的思考や科学的世界観など無意識のレベルで今の生活を支えてるのではと想像しています。
中高における知識観を教養主義に押しとどめようとは思わないし、会話のコンテンツ力で言えば学校の外で得るもののほうがはるかに大きいと思うし
英数国理社万歳\(^o^)/中学高校生のみんな!学べ!将来絶対役に立つぞ!
なんて満面の笑みで言われたら鳥肌ものではあるのだけれども
少なくとも当時無機質でひたすら点数に換算されていくだけのものだった知識が、今はすごくライブ感があって、「必要」なものにすらなっているという事実。
全員が学校で学んだことを全部活かして人生を作っていくわけではないけれど、それでも学校で学ぶことの全てが「いつか生きるかもしれない」凄く開かれた存在であるのだなぁと思いました。
でもかといって学校で習うことはあまりにも抽象的で現実味を感じることは難しいから、希望的観測だけをモチベーションにして学び続けるのはちょっと非現実的ですよね。
となると開かれた知識を閉じないように生徒に伝えるのは先生の授業設計とお上様の学習指導要領の責任なのでしょうか。
はてはて
moi moi!
欧米式の授業にしたら絶対手あげて質問するんだな?絶対だな?という話
こんにちは。moi!
ようやく授業が始まって参りました!
今までは、、
クラブだー
とか
パーティーだ―
とか
そんな感じで異文化感じつつ挙動不審な毎日を過ごしていたのですが、やっと授業が始まって、「そうそう。これをしにわざわざこんな遠くまで来たんだった!」と、不思議な安心感を抱いております。
↑ヘルシンキ大学行動科学部キャンパス。超かっこいい。
とはいえ、全ての授業がオールイングリッシュ。もちろん課題もオールイングリッシュ。今までなるべく定期的に英語に触れるようにしてきたとはいえ、明らかにテンパってます。ちょっとそこのとこの議論もう一回お願い!初めから!みたいな。
そんなこんなで今回は、まだ全ての授業が始まったわけではないのですが、ヘルシンキ大学での授業を通して大学の授業スタイルについて思ったことについて書こうと思います。
「先生と生徒の距離が近い」
「授業中みんな手を挙げて自分の意見を言う」
これらの言葉は欧米に留学した人が授業を受けた感想として、もっともあげられるものの一つだと思います。僕もそういう話を今まで沢山聞いてきました。
・・・そして今。
全く同じ感想を持っています。
「これが例のあれかー」という感じでしきりに感心しているところです。
・先生と生徒の関係性について
先生と生徒の関係性は「対等」で、お互いをファーストネームで呼び合います。オリエンテーションの時に「ドイツや日本など一部の国では先生と生徒が非常にstrictな関係性を持つと聞いていますが、フィンランドではとてもrelaxingな国です。相手がだれであれ、ファーストネームで呼んで構いません」といった説明を受けました。(この翻訳ももしかしたら、もっとフランクに「かまわないよ!」くらいで訳した方が適切なのかもしれません。)
次の話と被りますが、生徒が先生の話に突っ込みを入れたり、追加情報をつけたしたりなんてことはわりとよくあり、お互い対等な空間でそれぞれの目的を果たすために(先生や生徒という)自分の役割をまっとうしている、というのが僕の印象です。
・授業スタイルについて
授業には色々種類があって、
book exam(課題図書を読んでテスト一発)
lecture(所謂講義形式)
course(上二つとgroup presentaion、essayを組み合わせたもの)
seminor(日本でいうゼミ形式)
などがあります。
↑教室の種類も様々で、一枚目のようなオープンスペースで授業をすることも。二枚目は主にセミナールームですね。スタンダードなレクチャルームの写真はないのですが、まあ普通の教室です。
授業中は多くの先生がopennessやinteractionに非常に気を使っているように思えます。普通の講義形式であったとしても、ことあるごとに質問やコメントを募集する時間が設けられ、生徒も生徒でそれにこたえるようにして、積極的に質問や意見が飛び交い、時には先生を抜きにして生徒同士の議論にまで発展することもしばしば。卑しき感想を述べさせていただきますと、
「すげー欧米っぽい」
と、まあそんな感じです。
授業に活気があって、非常にダイナミックで、素晴らしい!!日本でもこういう授業もっとあってほしい!!
・・・と終わってもいいのですが、なんだかそれで終わるのも物足りないので、個人的な意見を少し付け加えさせてください。(大学の授業について今どういう議論が起こっているのかについてはあまり詳しくないので、本当に個人的な意見です。しかも一面的。これぞブログ。。。)
「ぶっちゃけ8割は生徒の問題・・?」
確かに先生のファシリテーションの力は大きいと思います。でも実際に動くのはどの場面を切り取っても生徒なんですよね。
こう思ったのもあるきっかけがあって
単純なことなんですが、ほとんどの授業はめっちゃアクティブなんですけどある一つの授業だけは全然盛り上がってない。全然手が上がらない。
なんでだろうなんて考えていたら(考えてる前にお前がなんか言えよ)、ようやく一人コメントする学生が出現。
その彼は前の授業でも一番発言量の多かった学生でした。
もちろん授業そのものに原因を見出すことも出来ないことはなさそうな気はするのですが、結局最後は生徒が動くんだなーなんて思ってしまいました。
日本の授業はつまらないなんて話は結構よく聞く話なのかもしれませんし、僕もそういう感じのことを過去にしたり顔でいったことがあるようなさむーい記憶がありますが、そんな僕はゼミ以外で授業中に手を挙げて先生に質問をしたことはありません。授業後にしたこともほとんどないです。
ほんとにこれは想像ですけど、実際に授業中質問したら「だまらっしゃい!」なんて言ってくる先生はあまりいないのではないでしょうか。
はたして大学の授業において先生の果たす役割と生徒の果たす役割はどちらのほうが大きいのでしょう。
確かにどの授業も過半数は学歴のためだけ、単位のためだけに受けている生徒ばかりなのかもしれません。僕も全く興味がないのに楽単だというので朝鮮文化に関する授業をぽけぽけと聞いていて単位を落としました。
でも絶対数人はいるじゃないですか。面白いな、もっと知りたいな、って思っている学生。
自覚がないだけで、もしかしたらその授業に少しでも興味を持ってしまった瞬間から、その授業をどれだけ質の高いものにするかの責任が自然発生しているのかも。
せっせこせっせこ手を挙げてるクラスメートを見てそう思いました。
僕らは一体何のために大学に通ってるんでしょうね。というかそもそも大学ってどういう存在なんでしょうね。
p.s.
もし本当に授業の本質が「先生が作った授業を生徒が受け取る」のでなく、「リアルタイムで先生と生徒が授業を作り上げていく」ものだったとして、そのこと自体を生徒に「教え」なきゃいけないとしたら、大学の先生って大変ですね。
大変なものは大変、という話。
こんにちは。moi!
フィンランドにきてから約2週間が経ちました。
まだまだ戸惑うことだらけですが、一寸の迷いなく地下鉄に乗り、スーパーのおばちゃんにさわやかなスマイルを投げかけるくらいには慣れてきました。
本日のテーマは「今なんとなく思ってること」です。
今、なんとなく思ってることがあるんです。
・・・「もしかして、留学って結構大変??」
そうなんです。二週間目にして気づいてしまいました。
大変です。
僕は大学で国際系のサークルに入っていて、周りに留学している人は腐るほどいて、彼らの動向はfacebookなどを通して流れてくるわけです。他にも留学経験者の体験談とかでも、その様子をなんとなくしれるわけです。
まあ、輝いてますよね。楽しそうですよね。ワクワクしますよね。辛かった話でさえシンデレラストーリーの一部として良い役割果たしてますよね。
だからなんとなく自分の中で楽観的なシナリオが出来上がっちゃうわけです。
でもそのシナリオはほんとにSNSの投稿と一緒で、時間の流れの一部一部を切り取って断続的につなげただけのもの。現実は24時間365日ノンストップで動き続けているのです。
だからもちろん楽しくてめっちゃ興奮してるといっても過言じゃないですよ。時々電車の中で急ににやにやしてしまうこともあります。
友達もすこしずつできてきて、昨日は学部のグループで遠出して国立公園まで行ってきました。
あらまいい写真!
・・・でもこうやって楽しかった瞬間だけが切り取られていって
最後に出来上がったものを見返してみたら、ハッピーハッピーな留学生活!になってるのかな
とか
帰国後にどや顔で留学体験談みたいなのでどれだけ留学生活が良かったかを語ってるのかなー
とか考えていたら、少しだけそんな自分に反抗してみたくなりました。きっとあまり日の目を見ない、それでもしっかりと24時間を下支えしている「大変な瞬間」を残しておきたくなりました。
朝から晩まで英語で会話するのはつかれるし
周りに日本人がいない中で、フィンランド語とかスペイン語とかドイツ語とか、とにかく共通言語を持たれるとちょっとやりづらいし
てか普通にコミュ障だし
一瞬の落ち込み、みたいな瞬間はいくらでもあるのです。一瞬どころじゃないかも。今日なんか、シャワー浴びてるときなんかにいままでの気づかれがどっと襲ってきたりして、数十分再起不能になったりしてました。
そしてそういう瞬間は、そのままほっとくと、成長の糧とか、将来の糧とかそういう一面的な言い方で処理されてしまうような気がして、そういう某キー局の24時間感動し続けるtv的な言葉が覆い隠してしまう生々しさとリアルがそこにあるような気がして
だから感覚的にそのリアルはそのままの形で真空パック保存しておきたいなと。
まあ大変なものは大変だよね、と、そういうことです。そいで、大変だったことって思い出補正かかりがちだよね、ってそういうことです。
ではでは。moi moi!
今夜は哲学者、という話
こんにちは。moi!
本日はオリエンテーション三日目でした。
といっても実は僕の学部は最初の二日で全ての工程を終えてしまったので、本日はノースケジュール。
スコットランド人の留学生が「散歩しない?」とのことで、ヘルシンキ市内を徘徊しておりました。
ヘルシンキは港町なので、横浜のみなとみらいのように海沿いにいい感じの散歩道がずっと続いていて
道はこういう感じになっているのですが、
この海のある方をふと向いてみると、、
こんな感じにもなっているわけです。超綺麗。
それはそれは幸せですよ。
これは老後かな?隠居かな?年金暮らし始まっちゃかな?でも今、年金払っても将来もらえるかどうかわからないんだっけ、、お役所さん頑張ってよ
なんて気分になってきます。
どんな会話も彼の超絶スコティッシュアクセントのせいで「ぱーどんぷりーず」の嵐なのですが、そんなことも全然気になりません。
ちなみに彼はスコットランド独立支持派でEU離脱には反対だそうです。ニュースで流れる出来事は(当たり前だけれど)全て当事者がいるんだなということを改めて実感しました。
前置きが長くなりました。こっからが本題。
本日は友達が教えてくれて、「a night of philosophy」なるものに行ってきました。
哲学カフェって聞いたことありますか?フランス発祥の、年齢身分に関係なくコーヒー片手に哲学的なことについて語り合おうっていうあれ。発想の素はどうやらあれからきているようです。
ただし今回のそれはレクチャーやディスカッションだけじゃなくて、アート作品の展示に加えアーティストによるパフォーマンスも同時に行われます。(超前衛的)
会場は五階建ての割と大きなミュージアムで、いろんなところでレクチャーやパフォーマンスが行われるので、パンフレットを見て時間ごとに自分の興味あるところを回っていく感じです。イメージ的には夏フェスですね。
トピックは例えば「what is love」とか「man as machine, machine as man?」など色々あって、なんと午後7時開演で翌日午前7時までぶっ通しでやってます。
それでこのイベントで何に一番驚いたかって、それはもうめちゃくちゃ人気なんです。これ。
入場制限がかかって会場の外に行列ができてます。
だって「a night of philosophy」ですよ。哲学の夜、ですよ。入場制限がかかるほどのイベントに聞こえますか?(聞こえてたらごめんなさい)
しかも来場者のほとんどは見た限り20代30代でカップルも多いです。
パフォーマンスはかなり前衛的で、白髪の女性が舞台上で中指たてたままずっと突っ立てるし、レクチャーのトピックもふだんはあまり考えないようなものばかりで、決して一般向けではないのかな、とも思えるのだけれども、みんなワイン片手に思い思いの解釈で自分なりの楽しみ方を見つけてる感じでした。
僕自身も一緒にきていた友人と、あーでもないこーでもないと話し込んだりなんかして。
哲学カフェは日本でもいくつか事例があるみたいだけれど、どれも限定的でクローズドなイメージがあります。こういうことができない日本人はだめだ!!みたいなニュアンスは1ミクロンも出したくないのだけれど、純粋に日本でこういう開かれたイベントがもっとポピュラーになったらいいな、って思います。
例えば中高生とか大学生とかでもトピックとコンテンツとファシリテーションをしっかし練ればきっといい感じのものができると思うし、今回は哲学とアートの融合だったけれど、そうやって表現の幅を広げていければもっと身近なものになれるはず。
アートもそうだし哲学は、自分が囚われている文脈から自分を解放してくれるような力があると思います。毎日したり、義務感でしたりするようなものでもないけれど、一年に一回とかほんとたまにでも普段考えないような奇妙な世界に身を浸す時間空間があれば、きっとなにかいいことが起きる、、かも。
ということで、またフィンランドを好きになれた夜でした。
moi moi!